アインシュタイン・ハイツ 302号室 藤井祐一
その日の教室
「最後になりますが、今日から約一月半、部活動の仮入部期間になります。部活動に入っていれば土曜日の五限が免除になることも有るけど、先生としては皆の『青春時代』を楽しんで欲しいって意味でも、先輩方や後輩とも交流出来る部活動を大切にして欲しいと思っています。やり方は個人の自由だから、先生もこれ以上は口を出せないけれど、出来るだけ部活に所属してくださいね。…じゃぁ、授業に入りますよ。今日はLesson1−3を訳すところから始めるわね」
担任でも有る英語教諭がそんなコメントを残しつつ、一限目を始める。
だが、何故か空気は何処か白々しく感じられた。
幾人かの視線を感じると共に、幾つもの目が自分の前の席に座る平田健に集まっているような気がするのは、多分気の所為ではあるまい。
今朝のやり取りと何か関係があるのだろうか、目の前に有る平田の背中も、何だか不機嫌な『色』や『曲線』を放っている。
何か、ストレスを発散しきれないような、自分に対しても苛立っているような。
そんな奇妙な空気が授業によってようやく緩んできた頃だった。
「兄ちゃ!!」
チョークの音と担任の説明だけが聞こえていた教室の扉がソロソロと開くと、突然子供の声が響いた。
正確には、突然ではなく、祐一はこちらに進んでくる子供の足音に気が付いてはいたものの、『まさかそんな事はあるまい』と高を括っていたのだが。
ざわめきと共に、衆目が一気に開いた扉の方へ集まる。
幼児だった。
うん、どこからどう見ても、幼児。
残念ながら満年齢にして十五歳で育児経験の無い祐一には、それが何歳くらいの子供なのかまでは判断がつかないが、黒い半ズボンにブレザー、ベレー帽とくれば、流石にそれが幼稚園児であることくらいは分かる。
園児の背後には、恐らく教員と思われるエプロンをした女性。
申し訳なさそうに教壇で硬直している担任の方へ頭を下げる。
「すみません。えーっと、平田優くんのお兄さんは…」
『平田?』という声が教室の隅の方で囁かれる。
目の前の少年が、席を立った。
「…はい。どうした、マー」
「あ゛ぁーっっ、兄ぢゃー!!」
幼児は…いや、平田優は泣きべそを掻きながら、立ち上がった兄に駆け寄る。
平田…いや、ややっこしい、平田健がそれを抱きとめる。
「すみません。お兄さんは何処だって言って勝手に幼稚舎を出て行っちゃって…」
教室は暫し、泣きじゃくる幼児の声に占領された。
「…でも、平田くんは授業中ですし。…どうしたらいいのかしら」
担任が、幼稚舎の先生となにか話している。
「かわいー、これで平田の弟?」
「まだ小さいのな。何歳?」
担任と幼稚舎の先生の会話を他所に、平田兄弟の周りに人が集まった。
目の前に居る平田の苛立ちがどんどん深くなっていくのが、祐一には『視えた』。
「マーっ!!」
平田…平田健が、平田優に叱責の声をあげる。
「あ゛ぁーっっ、だっで兄ぢゃいだいん、だいんだもんー!!」
叱責された平田優…もう面倒なので『優』と下の名で呼ぶことにしよう。
悲鳴混じりの反論をする優のために『通訳』しておくが、『だって、兄ちゃん居ないんだもん』と言っている。
優の感情からは、『ある筈のものを喪失した』という認識の『色』が非常に強い。
ここからは祐一の勝手な想像だが、兄と幼稚舎に来たものの、そのまま兄は自分と一緒に幼稚舎で過ごすものだと思い込んでいたのだろう。
ふと、教室の中には、祐一のように半ば呆れている者、可愛い物に興味がある女子や男子に混じって、『何処か居心地が悪そうにしている』集団が有ることに気付いた。
視線を走らせてそれを確認すると、記憶にある範囲で拭い去れぬ共通点が有る。
(エスカレーター組?)
やりきれない感情を抱えたその集団は祐一に取って不信を抱かせる『色』を放っていたが、それを確認したのとほぼ同時に、担任達の話し合いが付いたようだった。
「ちょっと主任先生に相談してきますので、残りの時間は自習にします。平田くん、君は弟さんと一緒にいらっしゃい」
「はい…すみません」
健は優を抱いたまま立ち上がると、『ゴメンな、皆』と片手を挙げて頭を下げ、教室を出て行く。
「可愛かったねー」
「なー。幼稚舎ってことは、五歳くらいだろ?」
「あー、でもこの時期だから、新入生じゃない?ウチは三年過程だってパンフで見たから、まだ三歳かもね。アタシ幼稚舎入ったばっかの頃、母親が帰っちゃって似たようなことした記憶あるし」
「えー?平田んちって、アイツが送り迎えしてんの?」
教室内で勝手な会話が繰り広げられる中、『エスカレーター組』の気配だけはどんどん黒く染まっていくのが、祐一には『視えた』。
(なんだろうねぇ、全く)
祐一は室内に立ち込める空気に辟易としながら、取り敢えず横になっている振りを始めた。
程なく一限目の授業が終わり、休み時間に入る。
教室内の話題は、相変わらず平田兄弟とそれに纏わる話ばかりだった。
二限目。
現代文の担当教諭と共に教室に戻ってきた平田は、相変わらず腕に優を抱えていた。
「わりぃ、皆。今日一日だけ、コイツも一緒でいいかな?」
「皆、迷惑かけるが、校長先生達の許可も下りている。スマンが今日一日、弟さんと一緒に授業を受けてくれ」
現代文の教諭は生粋の子供好き、並びに人格者として知られていて、小学校の教員免許を持っているのだが、枠の関係で高等部に居ることや、倫理の教員資格も持っていると健に聞かされたことが有る。
正確に言うと、この現代文教諭は桜丘学園では名物教諭の一人で、健の中学時代には中等部の教諭で、『他人の面倒をみるのなら人生に関われるような仕事がしたいのです』と言って高等部になったら高等部に移ってきたらしい。
先程の話に少し戻るが『エスカレーター組』の彼への信頼を見ると、もしかすると小学校の頃から付き合いがあるのかも知れない。
ボランティアなどの活動にも積極的で、『隗より始めよ』を地で行くタイプだそうだ。
それにしても、高等部に幼児が一日一緒に生活するとは、幼稚舎から高等部まで揃った一貫校ならではの、寛大な処置と言ってもいいだろう。
この学校の寛大な処置に対して、クラスの反応もまた極めて友好的だった。
健に促された優が照れながら挨拶すると女子からは『かわいー』と黄色い声が上がり、『何歳?』と訊かれておずおずと指を三本立てれば悲鳴が上がり、あれほど暗い空気を生んでいた『エスカレーター組』でさえ、優の存在に救われたように友好的に幼児を受け入れ、クラスメイトの一人は優がいつ『催しても』良いように、教室のドアに一番近い席を平田兄弟と交換したほどである。
優は、兄が居ることで落ち着いたのかすっかりご機嫌で、教室の端の方からはたまに彼の『お歌』が聞こえてくる。
その度に健が指を立て『シーッ』とするのだが、もったのは最初の方だけで最後の方には教諭も諦めて、何故か和やかに授業が進んだ。
教室に一人幼児がいるだけで授業がこんなに和やかになるのなら、それもまた新たな教育の方法論になるかも知れない。
作品名:アインシュタイン・ハイツ 302号室 藤井祐一 作家名:辻原貴之