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アインシュタイン・ハイツ 302号室 藤井祐一

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藤井祐一、朝の風景



 藤井祐一の朝は割と遅い。
 『昔と較べて』と言う条件にはなるが、朝は七時過ぎに起床、それからのんびり一時間ほど掛けて準備をして、八時過ぎにカバンを背負う。部屋を出るとどういう訳か大抵どさくさ紛れに人の部屋に入ってこようとするハイツの飼猫を数分掛けて追い払い、似たようなタイミングでハイツを出る住人に挨拶したりしながら、自転車で十五分ほどのところにある学校に、ほぼきっかり十五分でたどり着く。
 駐輪スペースに空きを確保してから、高等部に有る自分の教室にたどり着くまでが、大体五分。
 桜丘学園は幼稚舎から高校までの一貫校で、中学部から自転車通学が認められているため、時間が詰まってくるに連れ、駐輪スペースはそこそこ盛況になることが多い。
 八時三十分には教室にいる。
 始業時刻は八時四十五分からなので本当はもう少しゆっくりしていられるのだが、早めに登校するのは、基本的にトイレに行きたくなった時のためだったり、購買で購入するパンを予約したメモを置いておくためだったり、その日の学食のメニューを確認したり、たまに忘れていることがある宿題を処理するためだったりする。
 何をするにも『下準備』と『根回し』をすると言うのが元相棒の方針だったが、その頃の経験から身についてしまった悲しき習い性である。
 取り敢えず、それに間違いが有るようなら今頃生きていなかったような事もそれなりに有って、無駄ではないし、土地勘をつけておくのは決して悪いことではない。
 因みに、桜丘学園には担任・副担任制度が存在しているが、朝のホームルームはない。
 一限目の授業の担当者が、『連絡事項』として出欠確認と同時に代行する形になっている。
 今日も十五分ほどの余裕がある祐一は、『昼食を購買のパンにするべきか学食の定食にするべきか』という非常に学生らしい小さな悩みを抱えて、購買の近くにある自販機でカップのコーヒーを購入していると、下のフロアにある下駄箱の方から知っている声が『視えた』。
「お、来た」
 間違いなく、まだクラスに馴染みのない祐一の数少ない友人の一人、平田健の声である。
 因みに、健と書いて『たける』と読む。
 間違えると、『佐藤健の健だ!』というお決まりの台詞とサムズアップが返ってきて、教室に居る時ならば『佐藤健に謝れ、キツネ目野郎!』というツッコミが誰からとも無く入ってくるように出来ている、らしい。
 佐藤健とやらのことはよく知らないが、健という字が『たける』と読み、本人はそれにプライドが有る、という事は良く解った。
 で、その佐藤健ならぬ平田健なのだが。
 今日はなかなか上がってこない。
 普段…というほど時間は経っていないが、祐一がここに居るときは大抵このタイミングで彼はこのフロアに差し掛かり、片手を挙げて『よっ、藤井っち!』と挨拶してくるのだが、今日は誰かと会話しているようだった。
 その気が無くとも会話に耳を傾けてしまうのは『交渉人』時代からの祐一の悪い癖だ。
 『世界の会話のうち八割は噂話で出来ていて、そのうち九割が取るに足らない』と元相棒が言っていたが、それは『通訳』に『仕事をするな』と言っているのと同じ事だ。
 なにやら、『お前のせいじゃない』とか『今は大会に出られる』とか『結果として部は良くなった』という単語が聞こえる。
 こちらは知らない人の声だ。
 声の質からして十代の上の方…大人の声でないということは生徒だろうが、会話の中身を加味すれば上級生の可能性が高い。
 学校に入ってから気付いたのだが、学生というのはたった三年、年齢にして二つ。
 それだけの間で語り口や声の質に随分と違いがある。
 これがまた、大学生になると一年生の声は妙に浮ついて聞こえたりするものだから、学生というか、集団心理というのは不思議なものである。
「すみません、先輩。…それでも、俺」
 妙に歯切れの悪い健の声が会話を遮った後、いつもの歩調がやや沈んだような『色』で階段を上がってくる音が『視えた』。
 そうして登場した平田健は、いつものようにいつもの場所に祐一が居るのを発見すると、いつものような軽い調子に戻ってこっちへ駆け寄ってきた。
「よっ、藤井っち、おっは〜…って古い?」
「馬鹿じゃねぇの?」
 流石に『おはスタ』くらいは知っている。
 祐一の出身地は田舎のため、どちらかと言うと『慎吾ママ』のお陰だが。
「ひどっ、ひどいよ、藤井っち。朝っぱらからそりゃ無いよ」
 『アイタタタ』と冗談めかして傷付いたような表情を見せ、平田が項垂れる。
 一方で、祐一の耳はロビー状になっている購買フロアへ上がってくる、先程の人間の気配を捉えていた。
 祐一は、こちらへ視線を向ける上級生に向けて、コーヒーの紙パックをゴミ箱に捨てながら会釈する。
 相手は軽く会釈を返しながらも、祐一と平田を交互に見ていた。
 襟章のピンから見て、三年生だ。
「おい、何かあの先輩、話があるみたいだけど、いいのか?」
「あぁ、イイのイイの。終わった話なんだから。さ、授業まで時間ないぞー」
 平田は意に介する事なく、祐一の襟を後ろから引っ張った。
「おい、でも、ずっとこっち見てるぞ?」
 引っ張られて軽くたたらを踏みながら、祐一は訊ねる。
 先輩の視線は、幾らかの殺気と憐憫と同情、それらが入り交じった情熱のこもった『色』をしている。
「いいんだよ!」
 背中を合わせたような状態になりながら、珍しく平田がピシャリと言い放つ。
 その反応に、周囲を歩いていた生徒達の注目が一瞬、こちらに向けられた。
「…平田?」
「………」
 反応が返ってこない。
「なんかシリアスなところ悪いんだけど、俺、この姿勢じゃ階段登れないんだけど」
 それっきり黙ったまま階段を登ろうとした平田に、祐一は一言、突っ込んだ。