アインシュタイン・ハイツ 302号室 藤井祐一
「貴方が本当に責任を感じているのなら、俺をここから連れ出し、暫く面倒を見てくれ。代わりに、俺はこの力を使って貴方に“稼がせて”やる。何語でも使えて、相手の感情を“視る”事のできる通訳が居るのは『交渉人』にとって大きな武器になる筈だ」
時間があれば、少年には自分が手に入れた力を制御することが出来るようになる自信があった。
なぜなら、既に意識的に『視るもの』をコントロール出来るようになっていたし、『感覚的言語理解』については、『話す』方向にも生かせることがはっきりした。相手の声の“色”に合わせて自分の発音の“色”を調整すれば、ネイティブっぽく聞こえる事も実証され、聞いたことのない言葉でも『概ね理解出来るように翻訳される』事が解ったのだ。
ドイツ語やセルボ・クロアチア語が理解出来た、使えたのだ。
恐らく相当かけ離れていても理解できる。
文字は恐らく、覚えなければならないが、どういう訳か単語は既に“知って”いた。
これは『そういう能力』なのだ。
実際にこの後『何処であっても通用した』この特殊な能力を、少年は『トランスレイション』と呼ぶことにした。
英単語の日本語発音。
そうすることが、自分が『逃げ出す』イギリスと日本の未来をつないでいるような気がしたからだ。
今の少年に必要だったのは肉体の制御を覚える時間だった。
しかも、その時間は恐らく、それほど多くの時間ではない。
「つまり、お前は自分がイギリスと日本の『火種』になるのが嫌だから、俺に『連れていけ』と言うんだな?」
「あぁ。腕と指の制御だけは死ぬ気で訓練して既に手に入れた。貴方が拒否すれば、俺はめでたく『火種』になるか、自分で自分を処分することになる。今の状態ならば、自分で自分を壊すこともさして難しくないからな」
力が制御出来ていないのだから、恐らく自分で考えているよりも簡単に自分の手で、自分の胸を貫くことも可能だろう。
出来ればしたくはないが、ここでマウスとなるよりは、遥かにマシな一生になるだろう。
自分が手にしているのは、間違いなく『現代の人間が手にしてはいけない能力』なのだ。
「但し、俺が死ねば、俺が既に用意してある十五の方法で、日英の国家機関に『自分の身に起こっていること』を説明した上で『見かけたテロリストらしき男』の話についても連絡が届く。ベッドの下にある手紙はこの後破ることくらいは出来るだろうが、それでも後十四種類。リハビリの振りをして今夜は夜勤で居ない看護師のロッカーに差し込んだ手紙を彼が発見するまで、後八時間。それを除いて十三種類。そこまでは、処分さえすれば終わる。後は、俺の任意のタイミングで発動出来るボタン一つで送信されるメールを契機に一斉スタートだ」
シーツに潜り込んだ少年の指は、既に携帯のメールを送信するだけになっている。
「…私はめでたく『交渉人』から『国際指名手配犯』というわけか。ふざけたことを」
「解ってる。これは元々貴方が『テロリスト』だと思っていたから、『脅迫』するつもりで用意した手段だ。だけど、貴方が『交渉人』だというから、貴方に敬意を表して『交渉』で済ませるつもりになった。偶然に生まれた奥の手だよ」
「『交渉』のテーブルに私を座らせるにしては、稚拙な手だ」
「だが、今の貴方には回避する手段がない。準備する時間もなければ、回避する方法もないからな。貴方の“色”は今、俺に同情しつつも、事態が本当に日本とイギリスの引っ張り合いになったら困ると言う計算をしているのが、俺には“視える”」
暫しの沈黙が訪れた。
『交渉人』の“色”には様々な打算と計算が滲み出ている。
少年がしなければならないのは、『交渉人』が決意する直前の“色”からその意図を読み取ること、ただそれだけだった。
「………一週間待て」
「駄目だ。時間がない。俺の方がこの状態を、病院に隠しおおせる限界が近い」
リハビリ中、既に少年は幾つか物を破壊している。
通常の力では破壊し得ないも幾つか含まれていることを考えれば、疑念が確信に変わる日は、自分が意図的に『この力』を制御出来るようになるよりも間違いなく先だろう。
「なら、何日持つというのだ?」
「…三日だ」
「解った。ならば三日だ。私にも準備が有る。君を連れてリハビリが出来る場所と、君の戸籍を用意する時間だ。その間は、意地でも『持たせろ』」
嘘をついている“色”は存在しない。
否、ある意味では騙された。
あの決意の色は、騙すことを決めた決意の色だったのだ。
つまり彼は『三日をもらうために一週間と言った』ということになる。
こういった形の『嘘』は、まだ上手く理解し得ないらしい。
だが、その手管を含めて、少年はこの男が『賭けるに値する』ことを理解した。
「解った。三日は何とかする。貴方が三日後に来なければ、同じ事になるけどな」
「君は『交渉人』には向かないな…。これから叩き込まなければ。…“稼がせて”くれるんだろう?」
「努力する。…こうなった以上、俺自身が生きるためにはこれしか無いんだ」
「…ヤレヤレ」
男はベッドのしたをまさぐると、本当に用意していた手紙を取り出して、中身を確認する。
実際に英語で記載された内容を見て、本物である事に顔を顰めた。
「…看護師のロッカーは何処だ?後で処分しておく」
「なら、ついでに肩を貸してくれ」
「肩?」
「上を見ろ」
カーテンで仕切れるようになったレールの上に、四角い封筒が揺れている。
無論、これも少年が用意したものだ。
この一通のお陰で、現在の脚力なら、天井が三.五メートル有っても余裕で手が届いて、着地する際に筋断裂などの怪我もしないことがはっきりした。
この頃の少年の身長は百五十五センチ。
因みに、三.五メートルは、プロバスケットボールリーグのゴールを取り付けるバックボード、その内側にある枠の高さにほぼ匹敵する。
「跳ぶことに問題はないが、寝起きする事と歩くのに勢いがつきすぎるんだ」
少年は男の肩を借りて素足のまま立ち上がると、当たり前のように跳躍して、天井から封筒を取り、大きな音を立てて膝を折り曲げながら着地する。
幸いにして、怪我はしていない。
男の表情が驚愕とともに“衝撃の色”に染まった。
「冗談じゃなかっただろ?」
「その事にも驚いたが、本当に十五種類用意していそうなことに驚いているんだ」
「用意して有る。後は主にWebサイト上とメールでの方法だが」
「警備は切ってあると言ったと思うが、ジャミングは考えなかったのか?」
「ベッドの下を見ろ」
男が少年のベッドの下を見ると、いかついアンテナの付いた機材がノートパソコンのカードスロットに差し込まれている。
「…これは」
正体に気付いた男が『プッ』と吹き出した。
無線LANの野良電波を拾うための装置。
しかも、東アジアのある街に行くと売買されているという、強化版だ。
作品名:アインシュタイン・ハイツ 302号室 藤井祐一 作家名:辻原貴之