アインシュタイン・ハイツ 302号室 藤井祐一
『交渉人』ジェニオ −二年前(2)−
深夜十二時は、病院内においては完全に深夜と呼べる時間で、健全な生活を求められる患者たちはその殆どが眠りについている。
当然のように起きている者もいるが、そういう人間は大抵用事があって自分のことに集中しているか、巡回している警備員かなので、廊下を歩いている者が居ても『トイレに行くのだろう』と言う程度にしか認識しない。
そんな時間を狙って、男はやってきた。
「もう、起きて大丈夫なのか?」
三十代の男、灰色がかった黒髪のストレートヘア。
ヒゲは既に剃り落としていたが、骨格、顔立ちともに間違いない。
(来た…)
少年はシーツの下で携帯を開き、メールのメニューを呼び出す。
「余計なことはしないでもらえるとありがたいな。そこで止めておいてくれ」
少年の動きに気付いて、制止を掛けられる。
少年は大人しくそれに従った。
余計なことをすればただでは済まさない、と言うことが、纏ったオーラのような物に滲み出ている。
『少年の認識』では、それは本気の証でも有った。
「警備員なら来ない。ナースコールも今はシステムを切ってある。…だが、それほど警戒しないでくれ。意識を取り戻したと聞いて、話をしに来ただけなんだ。公式な面会ルートもお願いしたんだけど、通してくれなくてね。こんな形になったことについては詫びよう」
男は軽く頭を下げる。
その動作の迫力だけでも、男の体格がかなり大きいのが解った。
印象としてはひょろ長いのではなく、明らかに実戦を通った『偉丈夫』のそれに近い。
否、あの状況の中に入って来た時点で、実際に実戦を掻い潜っているのだろう。
「何の話だ。テロの言い訳か。それとも正当化か」
「違う。私は君の誤解を解きに来た」
意外な言葉だった。
少年が眉をひそめると、男は個室に用意されている椅子に腰掛けた。
「…話をしても?」
「…続けろよ。いや、“続けさせないと思っていない”のは分かってる」
“色”で人の感情が大まかに視える今の少年には、その点で嘘は通用しない。
「先ず、詫びなければならない。私は本来、あの発砲を止めるためにあそこに居た。銃を持っていたので誤解されたことは解っているが、私はテロリストでも、警備関係者でも無い。中立の、暗黙の内にあのテロを止めるよう依頼を受けた『交渉人』だ」
意外にも、その言葉は“真実の色”をしていた。
彼の主張に恐らく嘘はない。
そう“色”が語っている。
だとすると、彼は偏に『自分の責任で巻き込んでしまった子供の様子を一目見て、自らの失態を心に刻んでおきたかったから』少年の部屋に潜り込んできたのだ。
少年が起きて待っていることは予測していなかっただろうが、問題の面会相手で有る少年の態度がこうとなれば『何もしないので話を聞け』と交渉するのは、彼の本意であり、『交渉人』を自称する彼の本領だろう。
後、解ったことが一つ。
この男は恐らく東欧、スラブ語圏の出身だ。
英語の訛りにスラブ訛りが混じっている。
「交渉人?」
寧ろ、その単語の方が耳慣れない言葉だった。
「紛争地域や対立の構図が発生している場面に登場し、事態の仲裁を行う人間のことだ。私は師匠の処から独立して、立場としては中堅クラスの『フリーの交渉人』を生業としている。今回はイギリス政府の依頼で、行動にでるという噂のあった複数の過激派グループと交渉していたんだが、数が多すぎて先走る奴を止めきれなかった。その所為で君という犠牲を出してしまった。依頼人からの保護対象指定者でも有った君が万一死んでいていたら、暫く休業するか、廃業に追い込まれるかも知れないところだったよ」
沈痛な表情で男が答える。
素直な感情の“色”だ。
ほぼ間違いなく、こちらを交渉の相手とは見ていない。
寧ろ、同情の対象として、単純に謝りに来たのだ。
「君のような関係の無い若者が生命を落としていたら、私はまた師匠に叱られるところだったよ。意識を回復してくれて、感謝している」
何かとても重いものを思い出しているような態度に、少年は直感した。
そして、それが言葉に出た。
「…セルビア紛争ですか?」
男の醸し出す“色”が変化した。
疑念を示す複数の色が交錯し、唾液を飲み込む。
藪を啄いてしまったかも知れない。
「何故分かる?」
反射的に出てきたのは、セルボ・クロアチア語だった。
『否、それは間違いだ』と少年は理解した。
反射的に少年が発した言葉の方がセルボ・クロアチア語だったのだ。
ドイツ語を理解したときの現象が、逆に自分の発言になって飛び出してしまった。
男が驚愕したのは、少年が使ったのがセルボ・クロアチア語の発音だったからだ。
自分でもしくじったことを感じながら、それでも少年は続けることにした。
「年齢、訛り、感情の“色”。貴方の持っている総てが一致する地域と時期の紛争は、コソボ前後の紛争しかあり得ない。俺くらいの年齢の時に、“生き残った”貴方は、今の俺よりもっと辛い思いをしてきたことが分かる」
発言はセルボ・クロアチア語のままにした。
有用性を示さねばならない。
そして、この男に自分を連れ出させるのだ。
少年は判断した材料を提示する。
「感情の“色”と言うのが何のことなのか俺には分からないが、君の年齢でそこまでの判断ができるのは、驚きだ。敬意を表するに値するよ」
男の発言もまた、セルボ・クロアチア語だ。
「それよりも、教えて欲しい。君はいつ、セルボ・クロアチア語を習得した?君のことは調べさせてもらったが、『そんな事はあり得ない』筈だ。しかも君の発音はなんの訛りも無く、極めてネイティブに近い」
少年は男が食いついたのを感じた。
そこで、仕掛ける。
生きるか死ぬかの瀬戸際だった。
「これは俺にとっても賭けになるが、貴方を信用して俺はこれからすべてを話そうと思う。貴方が本当に『交渉人』で、俺に詫びるつもりでここに来たのが“視えた”し、貴方にはそれを聞くつもりがあるはずだ。そして、多分、これからもっと驚かされる」
少年は男が動揺している“色”を掴みとると、宣言した。
男の表情は変わらない。
だが、驚愕している“色”と“揺らぎ”、そして“匂い”が少年にははっきり見えていた。
「どこから話すべきか…目覚めたところから始めるべきだな」
そして少年は、運を天に任せる事にした。
説明自体は、五分ほどで終わった。
そして、説明自体を、男が使えるという五ヶ国語を総て織り交ぜて行った。
事実であることを証明するためだ。
男は最初驚愕し、やがて少年の身に起こった変化に興味を持ち、遂には利害を考える複雑な色を発し、それから少年を心配する灰色を放って、最後には何かの決意を秘めた深い赤が深く沈んで行った。
それがどんな決意かは分からない。
まだ分からないだけなのか、そういうものなのかも分からないが、今はそれで十分だった。
そして、最後に一言、付け加えた。
作品名:アインシュタイン・ハイツ 302号室 藤井祐一 作家名:辻原貴之