和尚さんの法話 「沙石集に学ぶー因縁所生」
会を喜び離を憂うるは真とに凡夫の愚かなる心と云うべし。――― 只愛執怨心の拙(つたな)き心を止めて無念寂靜の妙なる道に入る、是れ真実道人のすがたなり。」
無念寂靜というのは、無住の境地とか惟一心。そういう境地ですね。
仏様の境地というのは、鏡のような境地ですが、それは理想ですがなかなかそうは生き難い。
「――― 得有る事にも失を考え、失有らんにも得を考え憂悲を軽く致すべし。
――― 徒らに恩愛の奴となりて三宝敬田をも供せず、報ずべき父母師長の恩田をも重くせず、哀れむべき貧病の悲田を扶けず、善友を求むる志も薄く知識に仕うる暇もなし。」
三宝敬田というのは、仏法相の三宝に帰依する。それを三福田といいますが、この田というのは我々を養ってくれる米が出来ますね。
そういうことで仏と法と僧というのは我々を救ってくれる、助けてくれる立場であるのでお米と同じような立場であるということで福田(ふくでん)というのです。
それを敬いもしないというのですね。
父母にも孝行しない、恩返しをしない。
先生にも恩返しをしない。
今助けに行ってますね。
国ばかりではなく困った老人の世話をしているボランテア。
ああいうのは結構なことですね。ところがそれもしない。
困った人を見ても知らん顔して通る。
利益ばっかり追いにいって、善知識を求めて話を聞こうという気も無い。
「今生のわずらいは尚軽かるべし、当来の苦しみは如何ばかりならん。臨終の妄念は専ら恩愛の故なり。」
この世の苦しみなんか大したことはないんだと。
この世の苦しみは、地獄と比べると極楽のようなものだとお経に説いてます。
あの世の苦しみのほうが怖い。
臨終のときに、臨終正念で安らかに、たとえ呆けなくても安らかに往生し難いのは、妻子を残して逝くのが辛い。
普通であればそうですよね。
例外もありますが。
だから昔の人はよく言ったんですね、一蓮托生と。
共に極楽へ行こうと。
先に行って待ってるから、極楽で会いましょうということですね。
いつ死ぬか分かりませんからね、残された家族のことを思うその執念。
愛情ですね。それが邪魔になってなかなか行くところへ行けない。
そういうことにもなりかねない。
「情け深く契り深けれど中有に伴う習いなく、苦患に替るためし無し。」
一緒にあの世へ行くと、一蓮托生というわけには、なかなかいかない。
一緒に死んでくれと言っても断られるのがおちですね。
あの世へ伴って付いてくる習慣も無い。
だから苦しみに替わるためしも無い。
誰も替わってくれない。
「――― 常の人の善因は弱く、妄念は強く、妻子等にも愛執深からん、生死を離るる事真とに難し。」
常の人というのは、仏教の道理のわからない人ですね。
心の無い人ですね。
善の心が弱く、執念、妄念が強い。
「是の故に心に叶わん妻子はげに仇なるべし。花の形に造れる矢を以て射らるるに譬(たと)う。」
だから、ほんとうによく出来た奥さんと子供はあの世へ行く妨げになる。
これがこの世とあの世の考えの違いですね。
世間と出世間の考えの違いですね。
綺麗な奥さんで、心が優しくて、いつも貴方、貴方と言うて大事にしてくれた。家の嫁さんは天下一の嫁さんだと。
そんな嫁さんを残して死ぬのは辛い。
そんな嫁さんのために、自分は行くはずの所へ行き損じる。
だからその嫁さんは自分にとっては敵なんだと。
花のような形をして矢で射られる。とそういう例えですね。
それと同じことなんだということです。
「見る所は優しけれども命を奪う。」
つまりあの世で往生し損なう。
「――― かゝれば心に叶わぬ妻子有れば善知識と思うべし。」
今の例えと逆ですね。
あんなやつと。今度生まれてきたらあんな女と結婚なんかとてもじゃないがしたくない。
というような嫁さんを残して、死んでいくときは清々して死んでいく。
そしてあの世のことばっかり考えていたら、後は野と成れ山と成れということで、自分はもうあの世のことだけ考えていたらいいと。
そういうふうに考えていたら悪い嫁さんは自分の善知識だと。
そういう考え方になるということですね。脾肉ですね。
「是も只、そねむのみなば悪知識とも成りぬべし。」
あいつは何時も自分を大事にしてくれなかった。
あんなこともあった、こんなこともあったと、そんなことばっかり思っていたらそれも業を積む。悪知識になるから、だからそんなことも思ってはいかんと。
「偉提希の如く悪子に逢いて穢土を厭い浄土を願いなば悪子は却(かえ)って善知識とならん。」
偉提希に阿邪世という息子さんがありましたね。
その阿邪世のために、夫婦ともに牢へ入れられますね。
そういう子供であったがために、世の中が嫌になって無常感を起こして、お釈迦様の法を聞いて極楽浄土を願いたいと、こういう気になったんですね。
だから偉提希にとっては、阿邪世はね。
世間からいうと、なんて馬鹿息子だということになりますね。
親不孝者になりますけど、取り様によってはその子であったが為に、この人は穢土を離れて浄土を願うことが出来たわけです。
これが逆に、優しい可愛い子であったら、それに囚われて極楽往生を願う心も起こらなかったかもわからない。
「会う時心ざし深ければ別るる時嘆き切なり。
会う時心ざし薄ければ別るる時嘆き薄し。
得失相並ぶ事くだんの如し。――― 牛馬財宝も亦是の如し。重き宝、珍しき物も求むる事は苦しく守るも心を労し、失せなば亦嘆かわし。
常にも用いず用にも立たず、わろき物は惜しからずして常に用いる物は大切なり。」
有っても無くてもというようなものは失っても構わないということですね。
だから無くなたって苦しまない。
ところが大切な物は、苦しみの種になる。
「無常を知る」
「げに皆人の知り顔にして知らぬは死する事なり。」
皆知っているような顔をしてるけど、実際は知ってない。
死ぬのは他人ばかりであって、自分は死なないと思ってるんですね。
「真とに知るならば五欲の財利も何かせん。」
五欲というのは、眼、耳、鼻、口、身体。
それの対象に向かって我々は欲望を起こします。
その欲望が、五欲といいます。財宝とか利益とか、ですね。
「冥途の資糧慎むべし。」
そんな財宝や利益よりも、あの世へ持って行く功徳。いい所へ生まれさせてもらうための功徳、そのことを考えなさいと。
この世の五欲に心を奪われないで、後生の用意をしておきなさいと。
「僅かに近き道行かんとても心に隙(ひま)なく旅立つぞかし、」
ちょっと近い所へ旅をするにも、あれやこれやと準備をして注意をし、薬や何やと。特に昔は歩いて旅をしましたからそうですね。
そういう用意を怠りなくする。
「まして包める糧もなく、頼める伴もなくして遥かなる黄泉の旅近付く事を思うには何事も忘るべきに、」
ちょっと近い所へいくにも、それだけ心を使うんだと。
而も遠い遠い所へ一人で行くわけです手ぶらでね。
だから外の事を忘れて其の事に一途にならんなんはずだと。
作品名:和尚さんの法話 「沙石集に学ぶー因縁所生」 作家名:みわ