和尚さんの法話 「沙石集に学ぶー因縁所生」
息子さんもそれぞれに出世してと。
今寺を修理することになりましたので、あんたとこは百万円寄附を頼みますと。
頼まれて仕方なく、百万円出したとします。
そしてその人が他所へ来てぶつぶつと、あの和尚さんは食えん人で、こんな寄附を言いますのやと。まあえらいこっちゃと。
そのお金はお寺へいったら行ったきりですね。
そのお金で何か買い物でもしたら、と考えるんですね。
えらいことをした、あの和尚さんはと。世間からすればえらい損失ですね。
ところが仏道から言いますと、いいことをした、大きな功徳を積んだなとなるのです。
そのお金で買い物をしたのと、お寺で無理を言われて寄附をしたのと、あの世へ行ったらちゃんと分かるんです。
死んであの世へいったら、ああ、あのときよくまあ百万円寄附をして良かったということになるのです。
そこが世間と仏道から見た目では違うということなんです。
だから仏道の立場から見て、得だと思うていても、世間の目から見たら、逆に損になっている。ということですね。
「涅槃経に一の譬喩(たとえ)を説きて曰く、「或る人の門に容貌美麗の女人来る主人「何たる人ぞ」と問えば答えて「我は功徳天と云う。至る所に吉祥福徳有り」と言う。主人、悦びて請じ入るる。」
ひとつの例え話ですね。私が行くところにはいつも幸福が来るんだと。
私の周辺にはいっぱい幸福が漲ってるんだと。
そういう得を持った私ということですね。
それは結構なことだ、家へ来て何時までも居て下さいと主人が言う。
「即ち一人の女人有り従い来る容顔醜陋にして甚だみにくし。」
そこへまた一人の女性が来た。
ところがその女性は前の人と全く違って、醜い顔をした人だったんですね。
「如何なる人ぞ」と問うに、「我は黒闇天と謂う、それ故至る所に不祥災害有り」と答う。主人これを聞きて「速かに去れ」と言う。」
私の行く所に行くところに不祥災害ばかり来るというのです。
そんな者は来ていらん、すぐに去れと主人がいう。
「女人云わく「先に入る者は吾が姉なり。時として離るる事なし。姉を留めば我も留めよ、我を追わば姉をも追うべし」と。」
先に来たのは、あれは私の姉ですと。私と姉とは何時も一緒でないといかんのです。
姉だけ家へ入れて私だけ入れないと、そんなことは出来ないんですと。
だからお姉さんを入れるんだったら私も入れて下さいと言った。
若し、私が嫌だというならお姉さんも帰して下さいと。
「是に依りて主人二人共に追い出しつ。」
それだったら、もう二人共出て下さいと、主人。
「又連れて行くに、或る人これを聞くと雖も、姉を愛するが故に妹をも留む。」
姉妹が連れて行くと、或る人がこの話を聞くけど、姉さんがあまりに綺麗だから、妹さんは多少醜いけど、それは構わないと。
姉さんのほうへ重点を置いた。
前の人はこの妹さんに重点を置いたんですね。禍のほうに重点を置いた。
ところが後の人は、お姉さんに心を惹かれて妹さんは辛抱しようと思ったんですね。
「是を譬(たと)うれば生と会とは姉の如く、死と離とは妹に似たり。生死の理り会離の習い必ず俱なり。」
生者必滅絵者定離という言葉がありますね。
生まれるということと、それから会うということと、出会うということですね。
いい方のことですね、生まれるということはめでたい。
会うということはいいことだと。
死と離を妹に例えたんですね。死ぬことも悲しいことやし、別れることも辛いことですよね。
憎みあった同士が別れるのはいいことやけど、愛し合った者同士が別れるということは、もう泣かんなりませんね。
これは例えのお経ですから。
生まれると死ぬ、会うと別れる。兎に角、魔成らず裏表なんだということですね。
誰もそれを疑う者はいないでしょう、そのとおりでしょうと。
生まれた者は必ず死ぬんだし、会う者は必ず別れる。
「生者必減絵者定離。誰かを是を疑うべき。是れ故聖賢は生の因を止め死の苦を離る。会う悦びを愛せずして離るる憂い無し。」
聖者とか賢者とかいう道を心得た人は、死ぬということは苦しいことだから、その死に遭わんが為に、その生まれてきたという悦び、生まれるという悦びを克服するということですね。
我々は喜びに浸っているから死なんならん。
その喜びを辛抱したら、もう輪廻ということはなくなるんだという、こういう仏教の例えを言ってるんですね。
我々はこの世へよく生まれてきたと言って喜ぶ。めでたい、めでたいと。
死んだら悲しむのですけど、生まれたということは必ず死ぬということですよね。
ちょっと間があるけれども、必ず泣かんならん時が来る。
だから生まれてめでたいというけど、泣く種が出来たということですね。
悦ぶから悲しみがあるんだと。
会う時に悦びが無ければ、別れるときに悲しみも無いということですね。味気ない話ですが。
「この世の苦しみは、地獄と比べると極楽のようなもの」
「二人共に厭(いと)うが如し。」
その苦しみというものが要らなければ、お姉さんのほうも断りなさいということです。
悦びがあるから悲しむのだから。
だから、死ぬのが嫌なら生まれてくるなということです。
輪廻ということは、この世で居るということは死ぬということです。
何時までも何時までも死ななければいいのですが、人間の世界では死ぬということが無かったらこれほど結構なことはないでしょうね。
死ぬのが嫌なら生まれて来なければいいのですよ。
それをお釈迦さんが、何故人間は生まれてくるのかと。
何故歳を取って死ぬのかと、いうのが始まりですね。生老病死ですね。
そしてずうっと辿っていったら、結局煩悩が有るからだと、いうことに気付いたんですね。
無明。
そして十二因縁、般若心経に出てくる十二因縁。何故人間は歳をとり、そして死ななきゃならんのかと。
その原因を考えたら、生まれるからだと。
何故生まれてくるのか。
何処へ生まれてくるのかといいますと、それは三界ですね。
欲界、色界、無色界の三界ですね。
それ以外は、もう生まれる世界は無いんですから。
極楽浄土へ行きますと、死なない。
その三界というのは、三界唯心で自分の心から作りだしてある。
だからその三界を消そうと思うたら、結局自分の心の中の煩悩を消さなければだめだということになって、最後に突き当たったのが無明。
その無明を断じて初めて輪廻が断ち切れる。
仏教はこういうことになってるんですね。
だから死ぬときに悲しまんと、生まれたときに先に悲しみなさいと。死んでから悲しんでも遅いんだと。
生まれたときに悲しめば考えまたが少しは違ってくる、行いも違ってくる。
別れるのが辛ければ会いなさんなということですね。
会ったときに、これはかなわんな、別れるときに悲しまんならんなと、その時に憂いなさいというのですね。
そうはなかなかいきませんけど、徹底した考えですね。理屈はそうですね。
「凡夫は生を喜びて死を悲しみ、会を愛して離を憂う。然れば死をば生の時悲しみ、離をば会う時憂うべし。
作品名:和尚さんの法話 「沙石集に学ぶー因縁所生」 作家名:みわ