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和尚さんの法話 「沙石集に学ぶー因縁所生」

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「一の水を天は瑠璃と見、魚は家宅と見、餓鬼には膿血と見ゆるが如し。」

これもお経の中に例えとして出てきます。

ここには三つしか出していませんが、人間は水とみるんです。

「一水四見」というのですが、水というものは、一つだけれども、見る者の境涯によって違ったものに見える。

我々は水は水と見るでしょ。ところが天人は、それが瑠璃に見えるんですね。
魚は自分の家だと思うて見える。

餓鬼は血膿に見える。

だから水を飲ませてやろうと思うて水を持っていったら、それを見て血膿に見えるというて飲めない。ということですね、地獄は。

それを一水四見というのです。そういうものだというのですね。


「釈迦の浄土を衆生は穢土と見、覚者は浄土と見る。」

お釈迦様の浄土というのは、霊鷲仙ということになってるんですね。

インドの山ですね。そこにお釈迦様が浄土をお作りになっていると。

ところが我々凡夫が見たら、只の山だと。

ところが、覚りを開いた菩薩とかいう方々が見たら、浄土ですから非常に綺麗な金々満々の世界に見えるというのです。

それを「娑婆即寂光土」という言葉があるのです。

寂光土というのは、浄土のことです。

我々には瓦礫のような只の土にしか見えないけれども、覚者が見たらそこは浄土に見えるんですね。

だから全ては心の境地によって見方が違ってくるんです。

対象は一緒でも見る者の心境によって違いが出てくるという意味です。

「此の故に境縁に好醜無し。好醜は心に由るなり。」
本来、外の物には良いとか悪いとかというようなものは無いんだ、自分の心の心で作りだすんだということなんですね。

「されば万事は自業の因縁と思わば不詳厄難ありても人をとがめ恨むべからず。」
全ては自分だと、他所へ持っていかないで全て自分だというふうに考えなさいということですね。

「然るに人の科と思いて恨みを含み怨を報ゆる事、返す返す愚かなり。」
あいつがこんなことをやったから仕返しをしてやれと復讐するんですね。

「経に曰く、「怨みを以て怨みに報ゆるは怨み遂に尽きず。」
復讐をしても恨みは消えない。

「草を以て火を消すが如し。恩を以て怨に報ずるは怨遂に尽く、水を以て火を消すが如し」と。

枯れ草で以って火を消しているようなもので、よけいに火が燃えてくる。
悪いことをした者に善いことで返してあげるということです。

すると善いことをされると悪人は、あのとき悪いことをしたな、こんな善い人に、なんて私は悪いことをしたんだろうと、後悔の念が起こって其の人は、真人間になりますわね。

それを、やられたからやり返していたら何時までたったってその人は救われる縁に与らない。

この辺が難しいところですけれどもね、いざ実行となると。

「然らば昔の罪障を懺悔し業因を結ばずして輪廻の苦患を止むべし。」

兎に角、輪廻ということが問題ですからね。

そういう業を結ばないようにして、そして輪廻から脱していくようにと考えなければいかんと。行動しないといかんと。


「漢土(かんど)に北叟(ほくそう)と云う賢人有りき。事に触れて憂い悦ぶ事なし。或る時、只一匹持たる馬失せにけり。」

大事な馬が一匹何処かへ行ってしまったんですね。


「人、之をなぐさむに、「いざ喜ぶべき事にかあるらん、憂うべき事にや」と言う。」

大事にしていた馬が何処かへ行ってしまって可哀相にと慰めるんですね。

それはもっといいことがあるかもしれない、そう悲しむことはないと。



「両三日の後、天下に有り難き名馬を具して帰る。人、是を悦ぶと雖も「是も、憂うべき事にやあるらん」とて悦ぶ事無し。」

立派な馬ですな、と喜び。言うたとうりになりましたねと言うのですね。

いやいやこれで喜んではいられません、何があるかわりませんと言った。

「最愛の一子此の馬に乗りて落ち臂(ひじ)を折る。」

子供が其の馬に乗っていて、そして落馬して骨を折ってしまったというのですね。


「人亦是をとぶらうに、「是も悦ぶべき事にや或るらん」とて憂えず。」

それでまた慰めるんですね。

いらいことになりましたな、お気の毒でしたなと。

またこれも、ひょっとしたらいい事かもしれませんよと言うのですね。


「かゝる程に天下大乱して武士かられて相戦い皆亡び死す。此の子片わによりて命全うす。此の理り能々思い知るべきをや。」

徴兵で戦争にかきたてられたんですね。

そして皆が死んでいった。

ところがその子は、片輪であったが為に、その徴収令状が来なかったんですね。

だから命は助かったんです。


「老死曰く、「禍は幸いの伏し所、福は禍の倚(よ)る所と言える意は、人、科を悔やみて慎みて徳を行えば禍去りて福来たる」

吉凶というのは、裏表になっていると。

良いことがあったらそれに浮かれていたらいかん。

悪いことがあったらそれを鎮めることは要らない、またいい事はあると。


「おごるべからず」

和尚さんの在所の或る人がいまして、その人が和尚さんのお寺のお地蔵さんを信仰していまして、額へ歌を彫って寺へ奉納して飾ったそうです。

其の歌が、

「何時までも有ると思うな親と金。無いと思うな運と災難」

これは何方かが詠んだ歌ですね。其の人が詠んだ歌ではないと思うのですが。

和尚さんはこの歌を詠んで、なるほどなあと子供心にそう思ったそうです。

それと同じことを孔子が言ってるんですね。

禍が起こってきたら、自分は業が深いんだなと、思うて更に懺悔して、行動を慎んでいけば、また善いことが来るということですね。


「若し、福におごりて禍を恐れざれば福去りて禍来たる。」

善いことがあったと、自分は運がついてるんだと思っていたら、その裏返しが来る。こういう教訓ですね。


「又、世間には得と思える事、出世には失なる事多し。」

出世というのは、出世間。仏道の立場からいいましたらということですね。

世間というのは一般我々は世間人ですけれども、普通の世間で思うところの得と思うことも、仏道の目から見たら、損なこともあるんだと。


「又、世間には失と思える事、仏法にては得なる事有り。」

えらい損なことをしましたということがあるけれども、仏道の目から見たら、おまえはいいことをしたではないかと、いうような考え方があるということです。

ですから一般世間の水の流れと、仏道の流れとは逆になってるんですね。

普通我々人間の得と思うことは出世間、仏道の目から見たらいかんことがあると。

そんなことはいいことではない、えらいことをしたではないかと。
何を喜んでいるのだと、いうようなことがあると。

また世間で、しまったと思うようなことがあっても、仏法の目から見たら、何かいい事があると。

いいことをしたと、いうようなこともあると。

「得失は道に於いて得ともなり失ともなり。」

その立場、立場によって、例えば今の馬の話しですね。

これはもいう世間ばっかりの話しだけれども、世間の話しですけれども。

例えばお寺からですね、或るお寺から大きな寄附を言うてきた。

あなたのところが最近大きな成功をしましたやろ。