和尚さんの法話 「沙石集に学ぶー因縁所生」
それはいくらでしたかなと。
いくらだったかなと言ったので、ああ、やっぱりかと。
それでいくらですと。
そうですかと。
それでお金が一両とか二両とか言うわけですね。
その一両金が何枚で、一分金が何枚でと、お宅から家へ来たお金と同じにはならんけど、合算した金額の合計は一緒ですからと言うて、家のお金を集めたものをどうぞと言うて、渡すんですね。
それでやっぱりな、今はこれだけの人になっているのに昔はああだったから、魔がさしましたんかいなと、心に思うて、そのお金を持って帰ってきた。
そうしましたら、実はその家の息子さんがその消えたお金を持ちだしてたんですね。
それが分かって、えらい事をしたというので、またその妙好人さんの所へ行って、すみませんでしたと。実は息子でございましたと。
なのに何で一言自分ではないと言ってくれませんでしたかと。
そうですか、お金はありましたか。
私は前世で貴方様にお金をお借りしていたんだなと思いましたんで、お返ししましたんですと。
こう言うたというのです。
その息子さんが黙っていたらそのままになっていたわけですよ。
妙好人になるくらいの人だから言いわけもしませんしね。
若しも、その息子さんが黙っていたら、その人の世間の扱いが元のままになってしまうところですね。
それを承知で、ひょっとしたらそうなるかもわからんと思いながらも、これは前世でお仮していたに違いないと思うて返したというのです。
そういうふうな人生観になってくるんですね。
本当の仏教の因果の道理というのを身につけていこうとしたらね。
そういうことで世の中を渡り難いですよね。
「三界は唯心なり。心の外に別法無しと言いて、」
これはちょっと難しい言葉で、華厳経というお経の一説ですね。
「三界唯一心 心外無別法」
漢文のままだとこうなるのですが、和訳では惟一心の一が抜けてますが、お経というのはインドの言葉を三蔵法師が漢訳をしたんですよね。
これが偈ですから文字の数を合わさんならんから、だから一を入れたんじゃないかと思いますね。
三界は唯心で、心外には別の法は無しと。
これは仏教の高い覚りの境地を説いた文句なんです。
結局、我々の心から覚りも迷いも出てくるんだということです。
煩悩といい、覚りというのは皆心ですね。身体ではない。
心が迷い、心が覚るんです。だから問題は心なんです。
その心というものは、奥へ奥へ奥へといくと、一つしかない。
真如。それを唯心というのです。
唯の一つの心ですね。
それを真如とか、仏性というてもいいんですね。
その一心に成りきってしまった方が、如来様なんです。
その心から諸のいろんなものが出てくるわけです。
善い心も出てくるし、悪い心も出てくる。
元へ戻っていったら、たった一つの心なんです。
「真如」
「無住の一心より六凡四聖の十悪の依正を造り出せり。」
その一心は、無住なんです。最後の一番最後の真如。
仏性というものは、もう何処に留まるということはない。
有るとも無いとも言えないような虚空のような状態の心ですからね。
捕らえようがないんです。絶対境ですから。
無理に、唯心とか惟一心とか、名前を付けて呼んでいるけれども、それじゃそれはどうだと言うて出して示すわけにもいかない。
自分がその境地になってしまわないと分からない。他人から幾ら聞いたって分からない。
だから仏の境地は、仏と仏でなけれな分からんというお経があるのです。
仏の境地というものは、いくら説明をしたところで自分が仏に成らねば分からないんだという言葉があるのです。
唯仏与仏 乃能知・・・と続きますが、惟仏。
与というのは、と、と読むのです。
唯仏と仏と乃(すなわち)能知(よく知る)
仏の境地は仏でないと分からんという意味ですね。
だから仏の境地とはおうんなものだぞ、唯心とはこんなものだぞと、言うてみたところで、聞く方はああそうかいな、そんなもんかいなと、こんなことで。
自分がそうなってみて初めて分かることだということですね。
それは又は、無住の一心とも言う。
それを無住と付けてるんですね、この方は。
六凡四聖となっていますが、四聖六凡。
四つの聖というのは、「声聞」のことで阿羅漢ですね。
仏様の教えを、声を聞いて覚る。
それから「縁覚」。
仏様と一緒に生まれ合わすことが出来ないけれども、前世で既に深い修行を積んだ人ですね。
自分で覚るから「独覚」とも言います。
それから「菩薩」
それから「仏」様ですね。
声聞。縁覚。菩薩。仏。これを「四聖」といいます。聖者ですね。
六凡というのは、六つの凡夫ということで、地獄。餓鬼。畜生。修羅。人間。天上。この六つですね。所謂、六道の衆生を六凡というのです。
これが六凡四聖。
それが、六つの凡夫といい、四つの聖といい皆、一心は共通なんですよね。皆惟一心は持ってるわけです。
ところが、覚りの高さ、業の深さによって、声聞と成り、縁覚と成り、菩薩と成り、如来と成る。
或は地獄、或いは餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、それぞれの一つの心であるながら、境涯が違ってきている。
そういう説明をしているわけですね。
「依正」というのは、正報。依報と、言葉が二つあるのですが、その頭の文字を取って依正と。
私たちで言うならば、私たちはこの地球上に生まれてきた人間。
人間として生まれてきたことを、正報なんです。
前世で犬や猫に生まれずに、人間として生まれる事の出来る何か前世の因縁があるわけです。
偶然、人間に生まれてきたのと違うんです。
お父さんとお母さんとあるから自分は生まれてきたと、そういうもんじゃないんです。
前世の因縁が悪かったら、何処かの犬の子に生まれているかもわからん。
その犬にとったらその犬は正報なんです。
正しい報いを受けてるんです。
犬は犬でも、或いは人間は人間でも、その境遇は多少は違うわけです。
大金持ちの人も貧乏な人も人間は人間で一緒なんですが、依報が違う。
境遇が違うわけです。それが依報、正報です。
正報といい依報といい、それはどちらも心なんだということです。
責任者は皆、心なんです。
境遇を作るのも心だし、犬に生まれたり人間に生まれたりというのも、前世の心が行ってきたものだということです。
「法性の一理は平等なれども人々の業縁に依りて種々の差別を生ず。」
この法性というのも、無住心と言うてもいいし、惟一心と言うてもいいのです。
言葉は違うけれども。同じ言葉ばかり並べると芸が無いですからね。
だからちょっと言葉を変えてるだけのことで、これは唯心と言ってもいい、一緒です。
法性の一番根本の我々の心というものは、皆平等なんだと。皆仏に成る仏性を宿しているという面では平等なんです。
然しながら、業縁によって様々に差別を生じる。
行うことが違うんですね。
一番根本の心というのは一緒であるのに、言うこと行うこと思うことが違ってくる。
そこによって千差万別の区別が現れる。業ですね。
作品名:和尚さんの法話 「沙石集に学ぶー因縁所生」 作家名:みわ