和尚さんの法話 「沙石集に学ぶー因縁所生」
この世のことだったら、あのときやったことが今こうして功績が認められて貰えたんだと分かるけど、過去世のことは分からないですね。
自分で記憶がございませんから。
兎に角、人からなにかを与えられる、世間から与えられると思うけど、そうじゃないんですね。
前世で自分がその原因を作ってあるから、善悪共に。
だから巡ってきたんだということですね。
人から呉れたというけど、その人が直接原因で自分が貰った結果と思っているけど、その人というのは縁であって、貰った自分は結果であるわけです。
そういう縁に巡りあう因というのが、自分が過去に於いて行っている。
因 + 縁 = 果
この因と果は自分です。
自分がやって自分がその結果を受ける。善悪共にね。
縁というのは、自分以外の何かです。
例えば、交通事故に遭ったとしますと、それは果ですね。苦果。
自分がそういう目に遭ったんですね。
そこに加害者があるわけですね。自分が被害者で。加害者は他ですね。
そこで仏教から言いましたら、そこで被害を受けるような因を嘗て積んであるという取り方をするわけです。
我々は縁である加害者が原因だと思うわけです。
だからあいつが悪いんだと思うんですね。
ところが、因が無ければ加害者の縁に遭わないんです。
これが仏教の考え方です。
自分が因を積んで無かったら、そんな目に遭わないんだと。こういう考え方をするわけです。
ですから、どうすか、この加害者に賠償して貰うんだ、こんな大きな怪我をさせられてと。
これから働くことも出来ないかもわからないと。損害賠償をして貰うんだと。
おまえが原因で怪我をしたんだと。自分は青の信号をちゃんと守って通ってたんだと。
おまえが横から出てきてこうなったんだと。これは裁判でも通るでしょうね。
ところが、因が無かったらそんな事故に遭うことは無いんです。
仮に信号が赤で走ったって事故に遭わない。
因があったからちゃんと信号を守って通ったのに事故に遭う。
だから全ての原因は自分が作った因だから、自分が悪いんです。
こういう説き方なんですね、仏教は。
事故に遭ったということは、自分の前世の業がここで消えたわけです。
結果となって現れたから。
だから損害賠償は余計なことなんですね。
賠償したらまたこの業が残ってくる。
残ったらまた何れ何処かでこの業が出てくる。
だから仏教的な人生観を持ってくると、そういう面で見たところでは損をしてくる。
仏教の人生観から言いますと、こんな業があったんだなと。
然しこれで消えたんだと。
ここで事故に遭ってなかったら、何れ遭わんならんことだと。
こういうふうな考え方になるんですね。諦観ですね。
そんなことを言って、今の世の中を渡れますやろか、と言われるかも分かりませんね。
「妙好華」
「愚かなる人は」
因果の道理をお分かりにならない人は、という意味ですね。
これは以前にもお話しを書いたことがあるかもしれませんが、或るお坊さんがありまして、そのお坊さんが山に。
昔はお坊さんが人里を離れて山に入ってね、そういう生活をした人が、在家の人でも、坊さんでも、尼さんでもあったんですね。
その、或るお坊さんが、山へ隠遁をしておったんですね。
そうしましたところが、或る時、泥棒が入った。
それでその泥棒に、おまえこんな山寺へ来て、何があると思うかと。
よっぽどおまえは溢れたんだなと。
値打ちがあると思うものがあるなら持っていきなさいと。
すると大きな風呂敷を広げて、金めの物をとった。
それでもうそれでいいのかと。
土産にわしがひとつ歌を詠むから、これも一緒におまえにやろう。
短冊に一首、歌を詠んだんです。
「先の世で 借りたる物を 返すのか 此の世で貸して 後で取るのか」
こういう歌なんです。
おまえはそうして風呂敷へ物を包んで持って行くけれども、これはひょっとして、わしが前世で借りてあって、それを今おまえが取りに来て、それを返えしているのかもわからんと。
わしの前世の業であったなら。
ところが、わしが前世に何も業が無くて、今何も返す物を借りていないとしたならば、おまえは初めてわしの物を取って行くのなら、それだったらこの世でおまえに貸してあげよう、持っていけ。
今度は後にわしが貰うと。
きっとそうなるぞと。同じ事だということですね。
この歌を詠んで、その泥棒が改心して、泥棒をやめてその坊さんの弟子になった。
今の泥業と昔の泥棒と、ちょっと違うように思いますね。
昔の泥棒は同情された。三分の理屈と言うてね。
今はそうはいきませんね。
そういう考え方が、仏教的な考え方なんですね。
こういう話がございますね。
真宗は全く学問も無いような人。
或は、全くの道楽者の鼻つまみ者であったというような人でも、何かのひょうしに真宗の信仰に入った。
ご信心を頂いて、それから真人間になって、信心深い女性もあるし男性もある。
それを「妙好人」というのですが。
これは「妙好華」からとってるんです。蓮の花ですね。
仏教では、蓮の花を非常に尊ぶでしょ。
それは泥の中から出てきて、そして綺麗な綺麗な華を咲かせる。
というので、我々凡夫が泥に塗れて土に塗れていた凡夫が、仏性を持っているから、何時かの時に綺麗な華を咲かせるという、つまり仏に成れるということで、蓮というのは仏教では非常に尊んで、如来様や菩薩様皆、蓮を象って皆その上に乗ってますね。
それを「妙好華」と言うのですね。
それを象って、信心で必ず極楽往生間違い無しというような真宗の方を、妙好人と呼ぶんですね。在家の人ですねこれは。
それで。或る妙好人がですね、村の鼻つまみ者でしたんですね。
かっぱらいをやったり、騙して物を奪ったりしていた人なんです。
或る日のことに、お寺の縁で昼寝をしていたんですね、するとざわざわと人の話し声が聞こえるので目を覚ましたら、お堂の中でお説教が始まってるんですね。
それを縁で面白がって寝転んだまま聞いていたところが、因縁因果の話しだったんですね。
こういうことをやったら来世はその罪によって地獄に落ちる。
という話だったんですね。
ところがその人はそれを信じたわけです。
それからお堂の中へ入ってきて一所懸命に聞いて、それでお説教があると必ず聞くようになって、だんだんと改心してきて泥棒なんかやめてしまったんです。
そして最後は、一般の人が其の人を呼んでお説教を聞くというようになったんです。
そこまで人格が変わってしまったんです。
それで或る家で、その人を呼んでお話しを聞いたんですね。
近所の人も皆呼びますのでといってね。聞かせて下さいということで。
そして話をして帰るんですね。
そしてその後で、お金の要ることが出来てきて、その家の主人がお金を入れてあった引き出しを開けると、入れてあったはずのお金が無い。
それで、あの人かな、と思ったんですね。
昔のあの人を知ってるから。
そして帰った人を追いかけて行って、まことに申し上げ難いですけど、家のお金がお宅へ来てませんやろうかと言うと。
作品名:和尚さんの法話 「沙石集に学ぶー因縁所生」 作家名:みわ