和尚さんの法話 「沙石集に学ぶー因縁所生」
「沙石集というのは」
因縁所生といいますのは、過去の因縁ということですね。
過去の因を知らんと欲せば現在の果を見よ。という意味です。
この沙石集という書物は、無住禅師という鎌倉時代の禅宗の坊さんがいらっしゃるのですが、後には国師号も頂いた人です。大圓国師。
京都の東山の東福寺という禅宗の本山がございますね。
そこのご開山の聖一国師という方のお弟子さんですね。
お話しの中にも出てきますが、無住という禅的な覚りを示唆するような名前。
まるで反対の名前を付けることもございますが、そういうふうな名前の方が多いですね。
その無住という意味は、何処にも住しない。止まらない、執着しないということですね。
心が或るところに止まると、それは何かに囚われた証拠なんですね、仏教的な覚りの立場から言いますとね。
だから雲水といいまして、飛ぶ雲の如く、流れる水の如く、行雲流水で、そういう境地を尊ぶわけなのですね。
この無住というお名前も、自分がそうなんだとおっしゃてるわけじゃないんですが、そうなりたい。
そうならねばならんと、そういうことでございますね。
何処にも囚われない住しない。そういうお名前ですね。
その沙石集というのは、この沙石というのは沙や石ころというような意味ですね。
ひとつは、この無住禅師は、聞いた話、見た話し。
そういう話を集めて、そして是を読んだ者に何等かの仏縁を得てもらえればと、いうような願いで書いているわけです。
表現からいいましたら、自分が書いたものは沙や石ころのようなつまらんものですという謙遜の意味もございます。
そしてもうひとつは、砂金などを採る時に沙も一緒にすくいますね。
そして器を動かして沙を外していって、金を残して行くと。
だからこの中にも金がございますよと。
皆さんが心して読んで下されば、表面は沙ころのようなものですけれども、よく心して読んでもらえれば、黄金のような価値のあるものもございますよと。こういう意味です。
そういう意味で沙石集ということです。
だから心して読めば大いに大切な書物なんですね。
「下総に先世房と云う者有りけり。下地の者なりけれども、心様尋常なりけり。」
下地の者というのは、それほど身分の高くない人をいう。
身分の高くない人ではあったけれども、心根はなかなかしっかりした者であると。
「世にへつらう事もなく、万事に付きて「先世の事」とのみ言いて、嘆き悦らぶ心なかりけり。」
世の中の人に、お上手を言うて自分の利益になるようなことをする、そういう気持ちも無い。
悪いことがあると云うて嘆くのでもなし、善いことがあるからと云うて悦ぶのではない。是は皆前世のことだと。
一種の覚りの境地ですね。
「或る時家に火が付きて燃え上がりけれども「先世の事」と言いてさわがず居たりけれど、人、手を取りて引き出しければ「是れも先世の事」とて出づ。かゝりければ先世房とは言いけり。」
家が火事になっても、これは前世のことだと。
前世の因縁だというのですね。
それで人がそんなことをしていたら死んでしまうではないかと言って、他所の人が手を持って安全な所へ助け出すのです。
それで助かった。是も前世のことと。
助けられたということは前世の善い因縁があったから助かったんだということですね。
常にそういうことを言ってそういう行いをしてたから、誰が云うともなく、あれは先世房だということで、先世房というあだ名が付いたんですね。
「前世」
「真とに何事も過去の善悪の業因に依りて今世の貪福苦楽有り。」
この世で貧乏になるのも、大金持ちになるのも、苦しい目に会うのも、楽な目に会うのも過去世の。
過去、前世といいますが、この世の過去もありますね。
十年前、或いは二十年前に或ることをした。それの報いが善悪共に、今現れてきた。
というようなこの世の過去のこともあります。
我々の善悪の業というものは、まず我々はこの世に居りますからこの世を起点として話しを進めれば、この世で善悪の行いをした。
その報いが死ぬまでの間に自分に報いてくる。
ここで皆さんが間違うのは、子孫とか先祖という人がいますが、あくまで行った自分に報いてくるのです。
行った報いが五年後か十年後かそれは分かりませんけれども、兎に角この世で必ず報いてくる。
一部分の業はそういうふうに受けるんです。
それを「順現業」といいます。
その次が、この世で行った善悪の業がこの世では報い無かった。
それが死後で来た。
例えばこの世で悪いことをして、すいすいと世の中を渡る人がいる。
それが死後に地獄へ落ちた。
極端な例を挙げればね。
これはこの世の業があの世で報いたんですね。
これがこの世の次ですので、「順次業」といいます。
それから輪廻転生を致しますから、この世でやった行いが、この世で来ない。
死んであの世でも無かった。
次にまたこの世へ生まれてきた。
その生まれてきたときの一生の間に、今この世でやった行いが報いてくる。
これがあの世の次に来るので、「順後業」
それから極楽往生した人なら輪廻しませんけれども、そうじゃなかったら生まれたり死んだり、生まれたり死んだり無間に繰り返して行きますが、その何時かの時に、今ここでやった行いが報いてくる。
それが何時か分からないので「順不定業」。
定まっていないけど、然し何時か必ず報いる。
業というのは必ず来る。
それは善悪共に来る。
この四つあるんです。順現業。順次業。順後業。順不定業。
だからこの世の過去の業が今の自分に報いてくるわけです。
ですからこの世の過去もあるわけです。
前世の過去もあるわけです。
それは一つ過去の前世ではなくて幾つ向こうの過去か分からないですね、順不定業があるのですから。
何時の過去に行った業が来てるか分からないですね。
我々には分からない、お釈迦様や舎利弗、目連には分かるけど我々には分からないですね。
兎に角、この世の過去を含めて、前世の過去の行いが。
無記といって善でもない悪でもないという行いがございますからね。
ご飯を食べるとか道を歩くとか、これも行いですね。それは善でも悪でもない。
それによって誰かの食物を奪って食べたというのであれば、奪ったということに業があるけれども、食べること自体に善悪はない。
それを無記といって善とも悪とも記し難い中間的な業ですね。
業には善、悪、無記。三つあるんですね。
「愚かなる人は此の理(ことわ)りを知らずして、人の与うる事とのみ思えり。」
誰かからいいものを貰った。或いは賞を貰うこともありますね。
そういうのは相手がくれたから貰ったんだと、そういう人が居なかったら貰うこともなかったんだと言うかもしれませんが、呉れたということは自分が先にその原因を作ってあるから貰うんですよね。
これは順現業ですね。この世で功績を積んだから呉れたんでしょ。
呉れたということに心がいくけど、その原因が先にしてるんだから。
因縁所生といいますのは、過去の因縁ということですね。
過去の因を知らんと欲せば現在の果を見よ。という意味です。
この沙石集という書物は、無住禅師という鎌倉時代の禅宗の坊さんがいらっしゃるのですが、後には国師号も頂いた人です。大圓国師。
京都の東山の東福寺という禅宗の本山がございますね。
そこのご開山の聖一国師という方のお弟子さんですね。
お話しの中にも出てきますが、無住という禅的な覚りを示唆するような名前。
まるで反対の名前を付けることもございますが、そういうふうな名前の方が多いですね。
その無住という意味は、何処にも住しない。止まらない、執着しないということですね。
心が或るところに止まると、それは何かに囚われた証拠なんですね、仏教的な覚りの立場から言いますとね。
だから雲水といいまして、飛ぶ雲の如く、流れる水の如く、行雲流水で、そういう境地を尊ぶわけなのですね。
この無住というお名前も、自分がそうなんだとおっしゃてるわけじゃないんですが、そうなりたい。
そうならねばならんと、そういうことでございますね。
何処にも囚われない住しない。そういうお名前ですね。
その沙石集というのは、この沙石というのは沙や石ころというような意味ですね。
ひとつは、この無住禅師は、聞いた話、見た話し。
そういう話を集めて、そして是を読んだ者に何等かの仏縁を得てもらえればと、いうような願いで書いているわけです。
表現からいいましたら、自分が書いたものは沙や石ころのようなつまらんものですという謙遜の意味もございます。
そしてもうひとつは、砂金などを採る時に沙も一緒にすくいますね。
そして器を動かして沙を外していって、金を残して行くと。
だからこの中にも金がございますよと。
皆さんが心して読んで下されば、表面は沙ころのようなものですけれども、よく心して読んでもらえれば、黄金のような価値のあるものもございますよと。こういう意味です。
そういう意味で沙石集ということです。
だから心して読めば大いに大切な書物なんですね。
「下総に先世房と云う者有りけり。下地の者なりけれども、心様尋常なりけり。」
下地の者というのは、それほど身分の高くない人をいう。
身分の高くない人ではあったけれども、心根はなかなかしっかりした者であると。
「世にへつらう事もなく、万事に付きて「先世の事」とのみ言いて、嘆き悦らぶ心なかりけり。」
世の中の人に、お上手を言うて自分の利益になるようなことをする、そういう気持ちも無い。
悪いことがあると云うて嘆くのでもなし、善いことがあるからと云うて悦ぶのではない。是は皆前世のことだと。
一種の覚りの境地ですね。
「或る時家に火が付きて燃え上がりけれども「先世の事」と言いてさわがず居たりけれど、人、手を取りて引き出しければ「是れも先世の事」とて出づ。かゝりければ先世房とは言いけり。」
家が火事になっても、これは前世のことだと。
前世の因縁だというのですね。
それで人がそんなことをしていたら死んでしまうではないかと言って、他所の人が手を持って安全な所へ助け出すのです。
それで助かった。是も前世のことと。
助けられたということは前世の善い因縁があったから助かったんだということですね。
常にそういうことを言ってそういう行いをしてたから、誰が云うともなく、あれは先世房だということで、先世房というあだ名が付いたんですね。
「前世」
「真とに何事も過去の善悪の業因に依りて今世の貪福苦楽有り。」
この世で貧乏になるのも、大金持ちになるのも、苦しい目に会うのも、楽な目に会うのも過去世の。
過去、前世といいますが、この世の過去もありますね。
十年前、或いは二十年前に或ることをした。それの報いが善悪共に、今現れてきた。
というようなこの世の過去のこともあります。
我々の善悪の業というものは、まず我々はこの世に居りますからこの世を起点として話しを進めれば、この世で善悪の行いをした。
その報いが死ぬまでの間に自分に報いてくる。
ここで皆さんが間違うのは、子孫とか先祖という人がいますが、あくまで行った自分に報いてくるのです。
行った報いが五年後か十年後かそれは分かりませんけれども、兎に角この世で必ず報いてくる。
一部分の業はそういうふうに受けるんです。
それを「順現業」といいます。
その次が、この世で行った善悪の業がこの世では報い無かった。
それが死後で来た。
例えばこの世で悪いことをして、すいすいと世の中を渡る人がいる。
それが死後に地獄へ落ちた。
極端な例を挙げればね。
これはこの世の業があの世で報いたんですね。
これがこの世の次ですので、「順次業」といいます。
それから輪廻転生を致しますから、この世でやった行いが、この世で来ない。
死んであの世でも無かった。
次にまたこの世へ生まれてきた。
その生まれてきたときの一生の間に、今この世でやった行いが報いてくる。
これがあの世の次に来るので、「順後業」
それから極楽往生した人なら輪廻しませんけれども、そうじゃなかったら生まれたり死んだり、生まれたり死んだり無間に繰り返して行きますが、その何時かの時に、今ここでやった行いが報いてくる。
それが何時か分からないので「順不定業」。
定まっていないけど、然し何時か必ず報いる。
業というのは必ず来る。
それは善悪共に来る。
この四つあるんです。順現業。順次業。順後業。順不定業。
だからこの世の過去の業が今の自分に報いてくるわけです。
ですからこの世の過去もあるわけです。
前世の過去もあるわけです。
それは一つ過去の前世ではなくて幾つ向こうの過去か分からないですね、順不定業があるのですから。
何時の過去に行った業が来てるか分からないですね。
我々には分からない、お釈迦様や舎利弗、目連には分かるけど我々には分からないですね。
兎に角、この世の過去を含めて、前世の過去の行いが。
無記といって善でもない悪でもないという行いがございますからね。
ご飯を食べるとか道を歩くとか、これも行いですね。それは善でも悪でもない。
それによって誰かの食物を奪って食べたというのであれば、奪ったということに業があるけれども、食べること自体に善悪はない。
それを無記といって善とも悪とも記し難い中間的な業ですね。
業には善、悪、無記。三つあるんですね。
「愚かなる人は此の理(ことわ)りを知らずして、人の与うる事とのみ思えり。」
誰かからいいものを貰った。或いは賞を貰うこともありますね。
そういうのは相手がくれたから貰ったんだと、そういう人が居なかったら貰うこともなかったんだと言うかもしれませんが、呉れたということは自分が先にその原因を作ってあるから貰うんですよね。
これは順現業ですね。この世で功績を積んだから呉れたんでしょ。
呉れたということに心がいくけど、その原因が先にしてるんだから。
作品名:和尚さんの法話 「沙石集に学ぶー因縁所生」 作家名:みわ