続、吉良吉田殺人事件
その向こうから、まるで夕日を背にするようにして一人の男がこちらに向かって歩いて来た。間違いない、それは、島田幸助の姿だった。海岸のこちらで立っているのは、西尾警察署の荻原、そして吉良派出所の井手巡査。それにまだ若さの残る中年の女性と、その肩を抱いて支える男の姿だった。もちろん、そこには我らが温泉番、奥三河京太郎の姿があった。眩しい位に瞬く午後の日差しに目を覆いながら、彼らは海岸の向こうから歩いてくる男を迎えようとしていた。危害を加えそうな様子は無かった。それでも警官たちは気を許さない。犯人はいつ何時その態度を豹変させるか分からない。島田は片一方の手をポケットに突っ込み、もう一方の手は軽く腰に当てるようにして、近付いてきた。荻原警部がゆっくりと言った。
「島田幸助だな。殺人及び、死体遺棄容疑で逮捕する。」
島田は何の抵抗もせず、ゆっくりと両方の手を警部に向かって差し出した。
「...ご迷惑をおかけしました...」
うつむく島田の姿に、一人の女性が泣きながら駆け寄った。
「幸ちゃん、分かる...」
島田が一瞬、きょとんとした顔で、見上げた。
「お、お姉ちゃん...」
驚いた顔で、ぽつりとそう言うと、女性はいっそう声を上げて、泣き出した。島田の頬からもつられるように、涙がこぼれ落ちた。
島田は、両親はいなかった。父親は気が付いたときには彼の前に居なかった。母親も彼が中学の時、別の男と駆け落ちをした。それからたった一人の姉の恵子と、親戚の家を転々とした。
島田が高校に入った頃、恵子は北海道の実業家と結婚した。その後、二人の音信は途絶えたままだった。幸い頭の良かった、島田は、大学に進学できた。しかし、その後のこぼれ落ちるような姿は彼の人生を物語っていた。そして、やっとたった一人の姉を再開できたのがこの事件だったとは...島田は、ますます自分の人生を呪った。
「幸ちゃん、何か理由があったんでしょ。あんたは殺人なんか、できる人じゃない。お姉ちゃんが一番よく知っているわ。あんた、無愛想だけど、心の優しい子だった。お姉ちゃんいつもあんたに助けられたものね。」
涙声でそういう恵子の言葉に島田は子供のころを思い出していた。友達も出来ず、家族の温もりも知らない、島田にとって、唯一心の安らぐのは、姉恵子の存在だった。二人で、日が暮れて夕焼けが出来るまで、親戚の家の庭で遊んでいたのが思い出された。あの時見た夕日と、今日この海岸の夕日とは、なんと大きな違いだろう...
「...姉ちゃん...」
島田がゆっくりと言った。頬を伝う涙が海岸の石畳に落ちた。島田はそれを拭おうともしなかった。
「...なんてついていない人生なんだ、俺って...」
もはや、だれを呪うことも無かった。島田は最後の、彼の人生の中で、たった一人心を許しあえると思った女性を、この手で...自らのこの手で、亡き者にしたのだった。なんという悲しみだろう!神というものがあるとすれば、まさに自分はその神の庇護から零れ落ちている。それともこんな自分にも本当に天の救いはあるのだろうか...次第に深まる夕焼けの中で、島田の脳裏に様々な思いが浮かんだ。
「島田...用意はいいか?」
警部が少し、どすの効いた声で言いながら、冷たい鉄の錠をかけようとした。
「....」
島田は無言で頷いた。
「島田君、何か理由があるのだったら、言いなさい。君は本当にその女性を殺したのかい。僕にはどうしても何か訳があるような気がしてならない...」
「あなたは....」
驚いて見上げる島田に、京太郎は微笑みながら言った。
「そう、電車の中で、そしてこの間あの温泉の坂道で...君と会った...」
「そ、そうだけど、どうしてここに...!?」
「僕は、温泉屋を始めたんだ...」
怪訝そうな顔をする島田に、京太郎は続けた。
「実はリストラにあってしまってね。あの時、これから何をしようか考えるために、温泉に向かう途中だった。それが今こうして、商売をしている。」
島田は、この男が何を言おうとしているのか測り兼ねた。
「...あれは、実は..事故だったのです。僕にそんな気持ちは無かった....」
島田は、初め黙って全てを成り行きに任せようと思っていた。どうせ捨てた人生。どうなった所で変わりはない。なるようになれ...と、そう考えていた。しかし、どういう訳か、京太郎の素っ頓狂な一言に、話をしようと思い始めた。
「そうだったのか、やはり...君は人殺しが出来るような人間ではない。僕は一目見て分かったよ。」
「詳しいことは、署できこう...」
荻原が中に入った。その声に、再び恵子の無く声が大きくなった。
「幸助君、一つだけ言っておいてもいい?」
「....」
島田が無言で、上目使いのまま京太郎を見詰めた。
「...人生は、決して捨ててはいけない。どんなことがあっても、どんな時でも必ずそこから始めることが出来る。そういう風になっているのだよ。」
幸助には、まだこの男の言うことは分からない。しかし、やけにその顔が眩しい。夕日に照り映えて、何かに光っているように見えた。
「僕が、あなたの様に明るい人生を歩めたら...どんなに...」
「幸助君、僕も君と同じ、身寄りのない人間だよ。」
その言葉に、島田ははっとした。
「それだけに自分の力だけで生きてきた。結局今はリストラにあってしまったけど。でも僕は決してあきらめないんだ。この与えられた命を生きてやろう、そう決めている...」
最後は少し弱弱しい口調になった京太郎はそれだけ言って、じっと島田の目の奥を見詰めた。それは、人生に投げ出され、絶望して疲労の混じった、まさに疲れ果てた人間の目だった。しかし、それでも京太郎はその目の奥にかすかな希望の光を見つけるのだった。それは彼しか見えないものかもしれなかった。あらゆる世間が、すべての人々が見捨てた男の前で、ただ一人まだ捨てない人間が居た。その男は明るい陽光の中で静かに微笑んでいた。
「もっと、早くあんたのような人に会っていれば、俺の人生も変わっていたかも知れん...」
「出会いというのは、すべて最高のタイミングで会っているのです。今会えて、よかった...」
京太郎がそう言いながら、
「実はお姉さんの方から話があるのですよ。」
涙ぐむ、彼女を促すと、
「幸助...あなた、無事に帰ってきたら、私たちの所にいらっしゃい。」
島田は、涙ぐんだ顔を少し上げて恵子を見詰めた。
「この人が、幸ちゃんを引き取っても良いって、言ってるの。この人の会社で使ってあげても、いいって...」
涙ながら、ようやくそう言った。
「ほ、本当ですか...」
か細い声で、答える幸助に、恵子の隣の大柄な男が言った。
「本当だ、幸助君。北海道は少し厳しいけど、それでも広くて気持ちがいいぞ。頑張って、必ず帰ってくるんだ。そしたら一緒に働ける。もちろんお姉さんも一緒だ。」
幸助は、生まれて初めて人の温もりに触れたような気がした。思えば、生まれてこの方、本当にまるでたった一人で生きてきた気がする彼の人生だった。家族も、友人もいなく、ただ一人乾ききった道をとぼとぼと歩いて来た。それが彼の人生だった。
「さあ、もういいか?」
作品名:続、吉良吉田殺人事件 作家名:Yo Kimura