続、吉良吉田殺人事件
「ここじゃ、またひかれる。こちらに移しておいてやる。二度もひかれちゃ、さすがにお前も可哀そうだからな...」
そう言って、犬の前足と、後ろ足とを掴むように引きずって、道路脇に寄せてやった。
野良犬は、最後の力を振り絞るようにして、悲しい顔で島田の顔を見詰めていた。
「...そんな未練たらしい顔をしないでくれ。俺まで悲しくなる...」
そう言いながら島田は、暑さにまみれながら、汚れた犬を路肩に寄せた。もう力尽きたのか、そいつはぐったりとして、身動きもしなかった。
その時島田は、
「!なんで俺はこんなことをしてるんだ...」
我に返ったように、自分に問いかけた。一瞬、あの夜、たった一人、重くなった洋子の体を海岸で引きずっていた姿が目に浮かんだ。動かなくなった野良犬にさっと、両手を合わせると、急いで坂道を取って返し、ほおり投げたベレー帽を拾い上げた。
その様子を、カーブの陰からじっと京太郎は眺めていた。
鋭い視線を感じた島田は、はっと、上を見上げた。ベレー帽を拾う手を思わず止めた。自分の目の前に一瞬どこか見覚えのある顔が見えたからだ。それが誰なのかは瞬時に判別が付かなかった。しかし、島田は反射的にその場から立ち去ろうとした。
「...待ちたまえ!」
そう声をかけたのは、もちろん我らが京太郎。彼も又、一瞬どうしようか迷った末、半ば本能的に声をかけた。
「...!?」
島田は動揺が隠せなかった。
「な、何か僕に...用ですか...」
ようやくのことで、それだけ言った。そう言った後、しまった。何も言わずに立ち去るべきだったと、後悔した。半ば腰を引き加減に、後ろを向きかけている彼に、
「...君は島田 幸助君 だね...」
京太郎がゆっくりと、言葉を区切りながら言った。
一瞬しまったと、島田の顔に焦りの影が走ったが、時すでに遅かった。自分の目の前にどこかで見覚えのある、そうあの時の列車の中であった、おせっかい焼き親父が立っていた。島田のぼんやりとした頭に、ゆっくりとだが確かにあの時の状況が思い出された...
「大丈夫だ僕は君をどうこうしたりしない。ただ新聞やテレビで見た通り、君のことを知らない人は居ない...」
「放って置いて下さい。僕は島田なんて名前は知らない!僕ではありません。僕のせいじゃない...」
島田はかなり取り乱していた。自分でもはや収集が付かなくなるような、そんな極限状態に陥っていた。しかも目の前にあのおせっかい親父...
「僕は事情は知らない。ただ起きてしまったことは事実だ...自首しなさい。そしてすべてを説明するんだ。。」
「何を、どうやって説明するのですか。僕はやっていない。あれは事故だ...」
島田は言葉に詰まって涙ぐんだ。あのときの彼女の優しい言葉、笑顔、そして口をぽっかりとあけた空虚な顔などが一度に脳裏に浮かんだ。それらを自分の頭だけで処理するには、あまりに島田は力無さ過ぎた。ただ、ただ、自らの情けない人生を呪うことしかなかった。
「やっぱり、島田君だね...」
「僕の様な人間はこの世に生まれてこなければよかった。こんな人生は何の意味もない!」
島田は強い調子で言った。
やはりそうか、この男には何か事情がある。京太郎はその時島田の言葉から、そう直感した。
「島田君、意味の無い人生なんてないのだよ。すべての人に生きる意味がある。」
「こんな僕のような人生にもですか。いい加減なことは言わないでくれ。両親には早く死に別れ、後はネズミの様にあちらこちらを這い回り、やっとつかんだわずかな仕事。そのために変な癖に悩まされて、揚句の果ては大切な人をこの手で、この俺の手で...」
島田は自分の両手を顔に近付け、のろった。こんな手はなくなってしまえばいい。自分の人生も、そしてこの世の中も、いっそ消え失せればいいのだ!
島田は心からそう思った。自分の様な、いや自分だけでない、世の中の大半が生きているこの苦しみの世の中。そこにほんとうに生きる意味があるとは、今の島田には思えなかった。
「僕の人生など、無かった方がいい...放って置いて下さい!」
島田は吐き捨てるようにそう言って、その場を立ち去ろうとした。
「警察に言うなら、言ってください。僕は構わない...」
「島田君...」
それまでじっと、押し黙って耳を傾けていた京太郎が言った。
「...人を殺すような人間が、車に引かれた野良犬を介抱したりしない...」
「僕は別に介抱したりしない。ただ、邪魔だからどけただけだ。」
島田が振り返って言った。
「島田君、僕には君の心が分かる。君は本当の悪人なんかじゃない。自ら人を殺すようなことは出来ない。だから、自首するのだ!」
「あなたに、僕の何がわかるのだ。僕の人生の何がわかる!」
島田は心から呪いたかった。これまで生きてきた人生の惨めな日々。たった一人孤独で、意味の無い人生。すべてを呪い、この目の前にいる、お人よしそうな男にぶつけてやりたかった!
「あんたのような平凡な人に、分かってたまるか!」
そう捨て台詞を残し、立ち去ろうとした。
「...あなた、一体どうしたのですか...?」
後ろから、何か聞きつけたらしく、信子の声がした。
「な、何でもない...今、そちらに行くから...」
京太郎はそう言うと、カーブのこちら側に止めた、車に戻ろうとした。
「いいかい、放っておいても君は彼らに捕えられてしまう。その前に、自首をするのだ。分かったね...」
そう、言い残して京太郎は自分の車に取って返した。島田は既に今来た坂道を登り始めていた。その少し前屈みになった後ろ姿は、カーブの向こうに消えようとしていた。
信子が、車の助手席で待ちくたびれた様子で言った。
「あなた、何をしてるのですか?もうすっかりお湯も汲み終えたのに、いつまでたっても帰って来ないですもの。又どこかの人と、油を売っていたのですか...?」
信子の感が働き始める。じっと、京太郎の顔をのぞき込むように見つめる彼女に、
「い、いや、なんでもない。さあ、行こう。今なら夕暮れ前に家に着ける...」
そう言いながら、古びたシートベルトを腰の前で結んだ。
「さあ、出発だ。」
京太郎は勢いよくエンジンをかけると同時に、例のアナウンスのスイッチを入れた。
「温泉やー、いらんかね。取れたての温泉はいらんかねー...」
少し間延びした、スピーカーの声が、暑い日差しの中で響いた。その声を聴く人は辺りにほとんど居なかった。
「この人は、何か隠しているわ...」
あえて、明るくはしゃぐ京太郎。こういう時の彼は必ず何か隠している。京太郎を知り尽くした信子は、心の中で呟いた。
めくるめく陽光が、午後の海岸を照らしていた。
作品名:続、吉良吉田殺人事件 作家名:Yo Kimura