和尚さんの法話 『仏教の説く道徳』
死んだらいいと思ってるんだろうと、死に近づいてからそういう気持ちになると、具合が悪いですね。
死ぬのが近付いてきて悪い気持ちが起こるというのはよくないですね。
― 毘 尼 母 経 ―
十、
「看病の人、一には病気の食(くら)うべきと否とを知り、食うべき時は便ち与う。二には病者の大小便痢唾吐を憎む事なく、三には慈悲の心を以て接し、衣食の為の故に看ず。」
世話をすると、何かお金のようなものを貰えるだろうと、そういうような気持ちを持ってしたらいかんと、いうことですね。
そういう心を持ってするのと、持たないとでは功徳の戴き方が違ってくる。
「四には能く病者の癒え、若しくは命終わる迄心変わらず、五には能く病者の為に法を説きて歓喜せしめよ。然れば自身亦善法癒々増長すべし。」
仏教に対する知識があるならば、それを説いて聞かせよということですね。
― 四分律 ―
十一、
「看病の人は病者の定めて死すべきことを知ると雖も、死すべしと言う事勿れ、」
この人は死ぬと分かっても、もうすぐ死にますよと言うたらいかんということですね。
「まさに教えて三法に帰依せしめ、」
帰依させよと説いてるわけなんですが、帰依させよと言うても、言う本人が帰依してなければ出来ないことですが、これは前提にして説いてるわけですね。
「仏法僧を念じて勤めて供養を修せしむべし。」
これは地蔵経の中に出てきますけれども、病人さんがあってね、病気になるというのも、これも前世の不徳があって、それが病気になって表れてるわけですからね。
それで病人さんに功徳を積ます。
だから病人さんの財産がありますね、有形無形の。
それを、例えばお寺へ寄付をするとか、困った人に寄付をするとか、なにかその仏法僧に関することで使う。
良いことをしなさいと、そうすれば功徳になるんですからと。
そうすれば前世の罪が軽いものであれば病気は治るし、どうしてもこの世で治らないのであれば、あの世で功徳を受けるということになるんです。
「又、病苦は皆これ往世 (往世とは前世のことです)の不善の因果を以って此の苦報を得たるが故に今当さに懺悔すべしと説くべし。」
懺悔しなさいと。
前世の罪があって、こういうことになってるんだから懺悔しなさいと、懺悔させよということですね。
「病者、若し瞋恚(しんい)、悪口、罵詈(ばり)すとも黙して報(かえ)す事なく、此の病者を捨つる事勿れ。」
病人さんが、なにが悪いことなどしてるものかと怒る。
けども、優しく接しなさいということです。
― 善 生 経 ―
十二、
「病者の為に因縁譬喩(ひゆ)を以て微妙の法を説くべし。」
因縁、前世の因縁もそうですし、例えの言葉がお経の中に出てくることを、知ってることを聞かせてあげる。
そして説教してあげなさいということ。
「心の所願に髄いて果を求むる事勿れ。」
自分のことを思うてするんじゃなくて、病人さんのことを思うてしなさいと。
― 隋願往生経 ―
十三、
「病者を看病すると雖(いえど)も、慎んで恩を求むる事勿れ。」
看病してあげたんだから後で御礼を貰えると思う事勿。
そういう気になったらいかん。
「癒え已(い)りとても猶(なお)看るべし。 後に病いの復るを恐るべし。」
完全に治ったと思うても注意をしてあげなさいということですね。
再び病になる。ぶり返すといいますが、そこまで気を使いなさいということですね。
「若し、平復するを看ては心に応さに喜びを生ずべし。」
ああよかったなあと、病人さんが良くなったと、喜ぶだけで功徳になるんですよ。
心ですからね。
その逆に心の中で、あんなやつと思って、ののしって悪く思うたら不徳になるし、良く思えば功徳になるんですから。
我々は常に心を動かしていますわね。
善い心を起こしてみたり、悪い心を起こしたりね。
口には出さなくても、心では思うということもありますから。
功徳、功徳というたらいけませんのですけれども、我々は凡夫なんで何かこう、功徳がないとね。
ずっと、上へいって阿羅漢や、菩薩となってきたら、そんなことはもう卒業してしまいますからいいですけどね。
我々はどうしても、功徳、功徳があるならさしてもらうと。
せめて、それにつられてね、良いことをするほうが良いと思うんです。
ある所まで来ましたら、超越するときが来るんですから。
我々はまだ凡夫なんですから、一応やっぱりそういう餌につられて、悪いことをしないで善いことをする。
それでいいんですよね、我々は。
悪いことをするよりは、餌に釣られてでも善いことをするほうがいいですからね。
「報恩を求むる事を得ざれ。」
後のお礼を考えたらいかんということですね。
「病者癒え終わりて喜びて物を施さば受け已りて転じて余の窮乏(きゅうぼう)の人に施すべし。」
お礼といって、下されば戴きなさいということです。
あげた人もまたそれが功徳になるんです。
お礼の気持ちだから受け取ってあげると、その人の功徳になるが、断ると功徳のチャンスを外すわけです。
ですから相手の立場を考えてあげると、受け取ってあげるといいですね。
ですから、お寺のお坊さんは、絶対に断ったらいかんということになってるそうですよ。
たとえお茶一杯でも、お菓子一個でも拒んだら相手の人の功徳にならんから、受け取ってあげなさいということですね。
いらないと思っても、一旦は受け取ってあげてから、欲しい人にあげたら、それはまた功徳になるのですから。
「若し能く是の如く看病し治病でば当に知るべし、是の人はこれ大施主にして真に無上菩提を求むる人なり。」
本当の仏の道を求めていく人なんだということですね。
― 善 生 経 ―
十四、
「生まれてより善を為すとも臨終悪念なれば則ち悪道に生ず。
生まれてより悪を為すとも、臨終に悔いて善を念ずれば天上に生ぜん。
臨終の一念は平生百年の業に勝る」
健康なときに百年の間、良いことばっかりをするんですね。
ところが、臨終のとき何かのことで悪念が起こってきた。
そうすると、百年間の功徳が全部消えてしまうんです。
それで、この逆もあるわけです、百年の間、平生悪いことばっかりしてきたと、ところが臨終のときに、何かのことで、わーっと善心に帰ったら百年の業が全部消えてしまうというのです。
だから善悪ともに、臨終のときが非常に大切なんですね。
臨終正念というように、正念場というのはそういうことなんです。
臨終の一念というのが一番、大事なんです。
― 大 智 度 論 ―
十五、
「仏、臨終の病者の為に偈を説きて」
作品名:和尚さんの法話 『仏教の説く道徳』 作家名:みわ