和尚さんの法話 『仏教の説く道徳』
偈というのは、仏教の詩ですね。
無上甚深微妙法というのがありますが、これは皆、偈というのです。
字数がそろって書いてます詩のようなお経ですね。
「曰く、念仏三昧せば、必ず仏を見、命終わりて後仏前に生ぜん。」
つまり仏前とは浄土ということですから、浄土に生まれる。
「今臨終に於いて勤めん、尊形を瞻仰(せんごう)し、仏を念ずべし、是に依りて汝、仏の光明を見る事必定なるべし」
尊形とは、仏様のお姿ですね。
臨終のときになって一所懸命に、お念仏三昧する。
間があればお念仏を唱える。
そしたら、それが本当のものならば、必ず仏様がその病人さんの部屋に現れるというのです。
外の者には見えなくても、その病人さんには光を放ってお見えになると、そしたらその人は間違いなく往生する。極楽往生ですね。
これは臨終を迎えたときのことですね。
― 華 厳 経 ―
このように、そこまで仏教は説いてるということを知って戴けたらと思います。
我々は何となく病人さんのことを考えていますけれども、病人に対してはこうなんだと。
そしてただ単に病人を看病するというだけじゃなしに、解脱ということに繋がってくるということです。
仏教では、無始以来ですから。
お釈迦様が一人この世へ現れて、後にも先にも如来様は現れないというんじゃなくて、無始以来の長い長い時間の間には、浜の真砂の数ほどの仏様方がこの世へ出てきては、あの世へ行き、出てはあの世へ行きと、次から次からと出てきてるんですからね。
無始以来、未来永劫に続いていると、こういうことです。
そして、次にこの世に来られる仏様はもう決まっていて、弥勒菩薩という方が決まっているわけです。
それはお釈迦様が五十六億七千万年後に弥勒よ、おまえがこの世へ来て、仏教を広めるんだということを説いているわけなんです。
この弥勒という方は、お釈迦様のお弟子なんですよ。
一緒に仏教を広めた方なんです。
そういう仏というのは、位でいえば最高の位ですが、完全無欠の人格者なんですよ、人で言うたならば。
完全無欠と、言葉だけじゃなくて、本当に何もかも備わっている。
徳といい、通力といい、そういう何もかもが備わった方を如来とこういうんです。
だから我々は未来には必ずそういう如来に成れる可能性があるというお許しを戴いてるんです。
衆生は皆、仏に成れるんだと、皆仏性を持ってるんだと。
「一切衆生は悉く仏性有り」と。仏性があるんだということです。
仏に成る可能性は皆持っているんだというのです。
衆生というと、人間だけじゃないですね、狭く言うと人間ですけれども、広げたら犬も猫も魚も牛も、獣類、虫類、鳥類、魚類と、四類というんですが四つあるんですね、人間は別ですから。
おおよそこれらは皆、霊魂を持ってますから。
植物との違いは霊魂を持っているということです。
牛でも、生き物はね。それは皆仏に成る種を持ってると。
だから人間も、牛や魚や虫だったに違いないんですよ。
無始以来から考えたら、それがようやくこの世へ人間になってきているということなんですよ。
それはつまり、縁覚に成り声聞と、そして如来に成る。
如来というのは完璧なんですね。
この如来というのは自分も如来に成り、人も如来にすると。
ですからお釈迦様でも、阿弥陀様でも自分が仏に成って、それでいいというんじゃなくて、皆如来にするという。
それは諸仏の願いなんです。
菩薩さんでも同じですね。
自分も仏に成っているんだから、下の者もまた仏にしていかなきゃいかんと。
だから仏教というのは、永遠の過去から永遠の未来までずーっと続く大所帯の宗教なんです。
お釈迦さんだけが、プット出てきてそのあとは終いと、そういうのではないんですよ。
だからお釈迦さんの法はお釈迦さんが始めて説いたんじゃないんですよ。
前の仏さんも、その前の仏さんも、皆説いてるんですよ。
そして、前の仏さんとお釈迦さんと食い違いがあるということは全く無い。
皆同じなんです。
だから今の時代からお釈迦さんの説いてあることを批判して、そんなことは無いと、いうたら誤りですね。
それはこっちの知恵が足らんから。
自分が悟りを開いたら、仏さんの境地というのがほぼ分かってくるんですね。
そういうことで、皆仏にするというのが、仏、菩薩、阿羅漢、そういう方々が何れは仏に成っていくと。
下の者も仏にせなあかんと。
そういう願いを持っているわけです。
だから兎に角、あの世があるんだと。
死んだら終わりと違うと。
死んだらまた始まるんだ、ということを考えていかなくてはなりません。
まあ、この世も悪くないしもう一遍出てきても良いという人は別ですけれども、出来ることならばもう再びこの世へ出て来ないで、あの世でどんどん上へあがって行くと、いうのがよろしいでしょう。
具体的に一つの目標をいうならば極楽へ往生するということですね。
極楽へ往生すれば、阿弥陀様が全てを引き受けてくれる。
極楽へ行くまでは、こっちの責任ですけれども、向こうへ行けばあとはもうあちらが引き受けてくれるんですから。
どうすれば極楽へ行けるかというと、阿弥陀様はわしの名を称えよと、名前を称えるだけなんですよ。
お念仏をね。南無阿弥陀仏と称えるだけで極楽へ往生させてもらえるんです。
最初に言いましたね、称えれば仏前に生ずると。
教えはたくさんありますけれども、これほど楽な救いはありませんね。他力浄土門というのはね。
極楽へ行けば、あとは阿弥陀様が導いてくれるのですから。
極楽には観音様や勢至菩薩他、大勢のご眷属が浜の真砂の数ほどの仏様がいらっしゃるのですから。
そういう方々は遊んでいるのではないですね、自分の修行と、後の者も導くというのが仕事なんです。
そういうことなんですね仏教というのは。
ですから私も含めてせっかくこうして仏縁にお遭いすることが出来たのだから、どうぞこの仏縁を外さないようにしていただければ幸いでございます。
「人身受け難し 今すでに受く 仏法聞き難し 今すでに聞く」
というお経がありますが、これはこういうことです。
了
作品名:和尚さんの法話 『仏教の説く道徳』 作家名:みわ