和尚さんの法話 『仏教の説く道徳』
多すぎるように思いますがね、今の医療の失敗というのは。
我々が道を歩いているときにも知らずに蟻を殺してると。
それから医者が醫を業と為せる者と。
病を治せんとして計らずも死に至らしめると。
「父母、慈悲の心を以て子を戒めんとして打ち、計らずも命を終らしめ、」
めったにないとは思いますけれども、無いとは言えないですね。
「燃ゆる火の中に虫等の飛び入りて命を終らしむる」
火を焚いていたら虫が火の中に飛んできて入る。
飛んで火に入る夏の虫というて、よく虫が火に飛び込んでくる。
火を焚いたために、虫を殺したと、そういうふうな場合は、
「如きは悪しき心の有らざれば殺生の罪には非ず。」
悪しき心が無ければ、悪い心、殺してやろうという意識がありませんから、悪いと思うてませんから罪にはならんと、いうことですね。
だから法律でも過失罪とかありますね。
― 正法念處経 ―
三、
「若し我を殺さんと欲する者有らば我喜ばず。 我、喜ばざるが如く他も亦是の。如くならん」
人が自分を殺して来た場合に自分は殺されたくないと、自分はちっともそういうことは喜ばないと、だから決して人も殺されることは喜ばないはずなんだということですね。
「云何ぞ彼を殺さんや。」
だから自分が嫌なんだから、相手も嫌に違いないと、だから自分が殺されるのが嫌なんだから人を殺すということは出来ないはずだと。
「此の想いを為して他を殺す事勿れ。」
だから、今は簡単に人を殺しますわねえ、遊戯ですね、今の犯罪は。
人を殺すことを平気で殺していますね。
まるでゲーム感覚のような。
不倫なんていうのも仏教では、悪の中に入るんですよ。
邪淫ですね。
夫以外、妻以外の人と関係を持ってしまう。
ある雑誌を読んでいましたら、婦人連が同窓会を開いて、たまたま不倫の問題の話が出てきて、その中に不倫をしていた人がいるんですね。
あれ、あんた不倫を知らないの、「ばーかみたい」 と、そういう発言が出たそうです。
だから遊戯なんですね、当たり前のように思っていて、それをしなかったら時代からおかれて行くというふうな。
また、これは聞いた話ですが、女学生が万引きをして、注意をすると、「ばかみたい」 と言ったそうです。
だからなんというのか、麻痺してしまってるというのでしょうかね、道義心が。
そういう時代ですから、それを元に戻すというのは、これはもう大変なことなんですけれども、仏様も分かってると思いますが、衆生済度しようとなさってるんですから。
無始以来ずうーっと、未来永劫に続いていく、仏様方のご苦労が続いていくわけです。
如来様はもう修行は終わっていますけれども、菩薩様方とか阿羅漢はまだ自分の修行が残ってるわけですから、その修行をしながら仏様のお仕事をお手伝いをしているわけなんですね。
― 五句章句経 ―
四、
離垢地に住する菩薩は自然に一切の殺生を離れ、刀杖を捨て瞋根の心なく、慙(ざん)あり愧(き)あり、一切衆生に於いて慈悲の心を発し、常に楽事を求む。 是の如くして衆生を憎まず、況や是を殺さんや。
― 華厳経 ―
「離垢地」
というのは、もう煩悩を断ち切った、穢れを離れたと垢を離れたと、いうことですね。
地というのは位ということです。
だからもう煩悩を離れてしまったということですね。
「刀杖を捨て」とは、獲物を捨てる。
「瞋根の心なく」とは、怒りの心は根本的に無くなっていると、根(こん)は根(ね)ですわね。
根があると、上を切ってもまた生えてくるけど、根が無くなってしまったら芽も出ないし、育ちませんから、だから菩薩はもう怒りの根は無くなっている。
ここには出てませんけど、愚痴も無いし、貪欲も無い、根から無くなっている。
「慙(ざん)あり愧(き)あり」 慙愧という言葉がありますね。
他に対して恥じる、己に対して恥じることを言いますね。
慙が世間に対して恥ずかしい、世間は自分をどう思っているだろうかと、世間に対して恥ずかしい。
と、自分は何でこんなことをやったんだろうと、自分自身に恥じるというのが、慙愧。
「一切衆生に於いて慈悲の心を発し、常に楽事を求む。」
楽事というのは、救いですね。仏教的に言うと。
「是の如くして衆生を憎まず、況や是を殺さんや」
これも仏教的に言うと慈悲ということですね。
この『正法念處経』、『五句章句経』、『華厳経』と、お経の中から出してきたわけなんです。
「四分律」
次は四分律といいますが、これは律といって、戒律ばっかり説いた、四分律、五分律など、四種類の律があるんです。
それは、お釈迦様が亡くなって、部派仏教という派が出来てきて、いろんな部派が出来てきたんですね。
つまり、今でいう宗派です。
その派によって、それぞれの戒律が出来て、これが本当だ、これが本当だといって、どうしても一つになかなかまとまらない。
教祖さんが生きている間はいいのですが、教祖さんが亡くなるとどうしてもうまくまとまらない。
仏教だけではありませんわねえ。
キリスト教だって、新と旧がありますでしょ。
戦後に出来た新興宗教でもそうですね、教祖さんが居てる間は一本やけど亡くなったら、派が出来てくると。
これはもう仕方が無いですね。
浄土宗でも、法然上人のときは一本やけど、亡くなると西山、ともうひとつ出来てますわな。
門徒さんなんかは独立してしまってるわね。
まあ、こういうふうにならざるを得ないのですね、これも世の流れで仕方がございませんね。
五、
仏曰く、今より己後まさに病人を看るべし。 人若し我を供養せんと欲せば、先ず病人を養すべし。
― 四 分 律 ―
これは、とにかく病人を大事にしなさいと、そうすることで非常に功徳があるという教えです。
六、
若し仏子、一切の病める人を見ては将に供養すること仏の如くにして異なることなかるべし。 八福田の中、看病の福田は第一の福田なり。 若し父母、師僧、弟子及び世間の人々の病に逢えば皆養うて癒さしむべし。
― 梵網教 ―
この仏子というのは、仏弟子のことですね。
昔はねえ、その、お医者さんがあったわけなんですけれどもね、そのお医者さんが、薬を煎じたり調合したりしたんですね。
薬局というのがありませんでしたから。
お医者さんが薬を研究して病気を治療したんですけれども、昔のことですから、免許なんかいらないですね。
だから一般の人でも堪能な人は研究して、病人があったらその薬を役立てると、いうようなことをしたわけですね。
そこのところを言ってるわけですね。
福田(ふくでん)という言葉がありますが。
八福田とありますが、この福田とは、
「是れに施せば福を生ずる事、田の稲を生ずるが如きを云う。」
作品名:和尚さんの法話 『仏教の説く道徳』 作家名:みわ