和尚さんの法話 『仏教の説く道徳』
そこへその旅僧が通って、おまえ、その牛はお前の親だぞと、お前の親は死んでるんだろ、父親は。
はい、死んでます。
こっちへ来てみなさいと言うて、こっちへ呼んで、衣の袖を見なさい。
袖を通して、あの牛を見なさいと言うた。
そしたら自分の親に見えたと言うんです。
それで、びっくりして。
これはね、前世の業が深いからこうして牛になってるけど、お前の前世の親ですよと。
だから可愛がってあげなさいよと言うて。
それからその牛を一生よう使わなかったと言うことです。
そのまま大事に飼っていたという話です。
だから昔の人は、そういうふうな人生観というのか、世界観という考えを持ったんですわ。
第一、坊さんが偉かったんですね。
それを説得するだけの説得力を持ってたわけですね。
また一般の方も、純朴というのか、今と比べたらもっと純朴だったに違いないですね、これは。
だから昔の坊さんのほうが説教をし易かったと思うんですわ。
今の偉い坊さんよりはね。
逃げてるみたいですけど、どうもこれは私の実感ですね。と、和尚さんのお言葉です。
ですからね、お墓のなかにね、差別のお墓は問題になりますね。
それもあるんだろうけれども、私はね、あのお墓の中に牛や馬の墓があるんじゃないかと思うんですよ。
それは、戒名にね、差別戒名があるでしょ。
草男、草女とか。革男、革女。
というこういう戒名があるんですが、これは差別戒名と、そう言われるに違いないですわ。
しかし私は、先ほど言いましたように昔の人々は、畜生でもね、自分の親だったかも、兄弟だったかも分からんと、こういう考えを持ってますから。
ですから自分の所で飼ってた家畜が、牛や馬が死ぬと、やっぱり後々奉ってやりたいと、墓も作ってやりたいと、自分の親だったかも分からんというので、和尚さん、戒名を付けてやってくださいと、お寺へ頼みに行って。
和尚さんはさすがにですね、前世は人間だったかも知らんけれども、牛が死んで人間と同じように、何とか禅定門とか禅如とか付けるのは、抵抗があると思うんですな。
私でも抵抗がある。畜生に成ってるんだから既に、それは人間より下ですわね。
それで、革男とか、草女とかこれが相応しいんじゃないですか。
牛や馬の戒名なら。
こういう戒名があって、横とか裏に俗名三郎とかね、次郎とか、花子とか言うて人の名前を書いてあったらその人の戒名に違いないけど、それが無かったら分からないと思うんです。
それは、話がそれましたけども、今言う動物でも自分とこに飼うてた動物は縁があって来たんだと、だからこれは偶然ではない、前世で何かの縁があって来たに違いないと、前世では自分の親だったかも分からん、兄弟であったかも分からん。と、こういうふうに昔の人は考えを持ったはずなんですね。
だからこれはそういう教えからきてるんですよ。
これは「梵網教」という戒律を説いたお経なんですけどね。
「我、生を受けざる所無し。」
何処に生まれてるか、魚になったり鳥になったり虫になったり、過去に。無始以来ですから。
「故に六道の生類は皆是れ我が父母なり。 然るに、是を殺し食えば即ち我が父我が母を殺すに等しく、食うに等し。 故に常に生物を放ちて命を全うせしめよ。 若し世の人、生類の殺すを見る時はまさに方便を以ってその苦難を救護せよ。」
―梵 網 教―
そこで、放生会というのが仏教の儀式の中にあるんですが。生き物を放ってやる。
例えばその魚屋さんなんかね、いつもその魚を殺して売って生計を立ててるんでしょ。
それで、昔の坊さんが、生活のためとはいえ、生き物を殺して、それによってお前が生活をしているけど、場合によっては前世ではお前の親だったかも分からん、兄弟だったかもと、言うわけです。
せめて今日一日だけでも商売をやめて皆逃がしてやれと、そうすればお前の罪は随分消えるだと。
功徳になるんだ。と、いうような法を説いてね。
そして放ってやる。
そういうときに放ってやるときに、和尚さんがお経を読んであげるんだそうです。
特に、家族の中に病人さんがいるとかね、この魚屋さんとか、鳥屋さんとかじゃなくても、普通に一般の家庭でもね、病人さんが居てた場合にその病気が少しでも早く治ってもらうように、功徳を多く積むようにというわけで、自分とこに飼うてあるものを逃がしてやる。
だから放生池という池が寺にあったもんです。
和尚さんの寺にも、和尚さんが子供の頃に、この放生池があったそうで、 この池に鯉とか亀を皆が池に放しに来たそうですよ。
そういうことで、単に生き物を殺生しない、哀れんでやるということだけじゃなくて、自分の前世の親だったか兄弟だったかという、そういう考えを持ったんですね。
ですから、それを前提にしてお経を読むといいですね。
ですからそこから肉食しないというのが、お釈迦さんの教えの中に、戒律の中に魚とか肉とか食べるなと、自分の前世の父母じゃという考えなんですね。
「生けるものを殺せる罪」
二、
「我汝等に説かん。 衆くの生けるものを殺せる罪に三有り。
一には善き人を殺せる罪、
二には仏の教えに順いて正しき道を行える阿羅漢の位にある者を殺す罪、
三には悪しき人と畜生等を殺せる罪となり。
諸の比丘よ、貪によりて生けるものを殺し、」
貪瞋癡と、ありますね。
貪とは、欲のことですね。
欲が根本で場合によっては人も殺すこということもあると。
貪によりて生けるものを殺し、というのは、人を殺す場合もありますわね。生けるものですから。
今はそういう時代になっていますね。
「瞋(怒り)によりて生けるものを殺し、」
喧嘩をして相手を殺してしまうとか、犬に吠えられて、腹が立ってその犬を殺すとかね。
怒りによって殺すと。
「癡によりて生けるものを殺すは皆大いなる罪有り。」
癡というのは、道理が分からないということですね。
何の道理も分からないでやってしまうと。
この三つから罪というのが起こってくるというんですね。
貪瞋癡と。
貪瞋癡とは、皆心ですわね。
意業の中に貪瞋癡があるわけですわ。
これが根本で、殺生したり、嘘をついたりというようなことは、皆この意の中の貪瞋癡から出てくるわけです。
この貪瞋癡が無くなったら、それだけではまだ解脱は出来ませんけれども、ずっと上の天上界へ行くんですね。
ですから、この貪瞋癡て、道徳はね、外から見える行いはよく言いますけれども、その貪瞋癡まではなかなか説いてないとは言えませんけれども、仏教は上辺で出てくるものよりも、心の持ち方、行い方を重要視しますんですね。
「比丘等よ、生けるものを殺すは慈悲無き事の甚だしきものなり。 道を歩む時、知らずして蟻等を殺し、醫(い)を業と為せる者、病を治せんとして計らずも死に至らしめ、」
うっかり殺してしまう。
意思しで殺したんじゃなくて、うっかり殺してしまうという場合がありますわね、失敗しますわね。
作品名:和尚さんの法話 『仏教の説く道徳』 作家名:みわ