和尚さんの法話 『仏教の説く道徳』
だからどうしても、涙を呑んで、地獄の苦しみを与えて、世の中はそんなに甘くはないんだぞと、ここへ来たらこんなことになるんだという反省をさせて、また再びこの世へ送る。
こういう仕組みに、地獄とか、餓鬼とか、こういう仕組みになっているわけです。
だから仏様の世界にでも地獄という怖い世界を設けてあるのですから、やっぱり我々のこの世にも、なにか怖いものがないと、人間というのは凡夫ですからね。
仏様と違うんですから、怖いものがないと、怖いから悪いことをしたいけれども、出来ないということになる。
悪いことをしなければ、まあまあこの世も一応は平和ですわね。
これからお話をしますのは、経典にあります律、とかそういうのを引き出して書いてあります。
一、
「一切の男子は是れ我が父なり。 一切の女人は亦我が母なり。」
仏教では、自分の現在のお父さん、お母さんだけじゃない。
霊魂不滅というのが前提になってくるんですね。
その霊魂というのは、何時発生したというんじゃない、はじめからあるのです。
はじめが無いんですわね、言うてみたら。
仏教では、はじめの無いはじめだというんです。
何時からかというと、こういう言葉があるんですよ、「無始以来」 と言って、始めが無い。
始めの無い始めなんですわ。
この地球は、発生の時期がありますわね。
だから何時か滅亡する。
ところがこの空間はどうですか。
現在あるこの広がり。
空間というのは、何時出来て、何時になったら、この空間が無くなるというもんじゃあない。
これは始めから在るんですわ、空間というのは。
不思議ですね、これは。
何処まで行っても、何処まで行ってもここで空間が終わるということは無い。 無限ですわね。
無限なるものは絶対で、絶対なるものは滅びない。
だから空間が滅びるということはあり得ない。
ですから空間と同じことで霊魂も、無始以来、存在するのです。
始めからある。
ただそれが変化しながら、生まれたり、死んだりと、繰り返す。
いずれはこの、科学者も言うてるけど地球も滅びるし、生物も皆無くなる時期が来るでしょうね。
然しながらそれで終わりかというと、そうではない。
そしてまた、無限の時間が過ぎて、どうにかなって、そしてまた地球が出来てくる、生物が発生して人間が出来てくると。
おそらくこれを繰り返して、無始以来これを繰り返していると思うんですね。
今現在、地球があるということは、過去にも、地球があったということですし、また未来も、次の地球があるだろうと、いうことは予想できますわね。
地球は後にも先にもこれ一遍だけやということは、なかろうと思うんです。
分かりませんけれども。
そういうふうに無始以来にその宇宙と人と変化しながら消滅していくと、だから無にはならない。
物質でも、物質というのは形があるのですから大きくなったら目に見えますね。
これが細かくなって小さくなったら目にも見えないし、手にも触れても分からないというもんでしょ、そういうことは科学者も認めますわね。
だから科学者の認めることは我々も認めますわね。
ただ、科学者は霊魂があるということを、まだわかっていない。
科学者は、物質は形があるから理解が出来ますが、然しながら霊魂は形が無い。
百万人の宗教家が叫ぶより、一人の偉大な科学者がノーベル賞でもとってくれて、そういうことをおっしゃってくれたらそれで充分ですね。
霊魂は形は無いけれども、存在すると言うてくれたらひじょうに助かるのですがね。
ところが現在は霊魂ということをまだ、科学者は証明できていない。
然しながら我々の立場からは体験上、そしてお経にも大乗経にもそういうのを説かれていますよね。
これは霊魂というものは、体験出来る。
信仰とか修行の如何によって体験が出来るのです。
霊魂は体験できる。その体験をいかにして科学者に理解してもらえるかというのは私の課題なんです。
「人生観」
そういうことで、この「一切の男子は是れ我が父なり」と。
この世の父母はもちろんそうなんですが、無始以来我々は死んだり生まれたり繰り返して、生まれてくる限り、父と母があるわけなんですね。
たとえ犬と成り、猫と成り生まれ変わったって、魚に生まれ変わったってオスとメスがあるわけなんですから、それは無始以来、繰り返してるんですから、今は全く他人のようになっていますけれども、過去においては父だったかも分からんし、母であったかも分からん、兄弟だったかも分からん、こういう人生観ですね、仏教は。
そうすると、あかの他人に対する考え方も変わってくると、それを信じると信じないとで違ってくると思うんですね。
おそらくこの
「一切の男子は是れ我が父なり。一切の女人は亦我が母なり」
というような考え方は、仏教以外には無いんじゃないかと、私は思うんですよ。
そうすると、今のあかの他人の男の人に対して、或いは女の人に対しても、過去には父だったかも分からん、母だったかも分からん、兄弟だったかも分からんと、こういう考えを持ちますから。
だからそれが霊魂不滅というて輪廻しますね、人間はいつも人間じゃない、上ったり下がったりしますから。
だから仮に犬であっても猫であっても、ひょっとしたら自分の前世の親だったかも分からん、兄弟だったかも分からんというような考えを持つ。
そう考えると、犬でも猫に対してでも愛情が違ってくるでしょ。
本気にそう信じたらね。
行基菩薩という方が居ましたね。橋の無いところには橋を作り、水の無い所には井戸を掘りというて、全国を廻った偉い昔の平安時代の僧ですわね。
東大寺を建てた、大仏さんを建てた大勢の中の一人ですわね。
法相宗の方ですが、その方の歌の中に、
「ほろほろと 鳴く山鳥の 声聞けば 父かとぞ思う 母かとぞ思う」
という歌があるんです。
旅をしていて山の中を歩いておったら、ほろほろと山鳥の鳴く声を聞いたと、お父さんの声、お母さんの声に似てるなと、いうようなそんなロマンチックな歌じゃなくて、前世の、自分の前世の父じゃないだろうか、母じゃないだろうかと。
ここでこの声を聞くということは、袖触れ合うも他生の縁であって、偶然じゃないと。
仏教では偶然ということは言いませんからね。皆、必然といいますから。
だから何か自分と縁があるのと違うかと。
ひょっとしたら前世の罪が深くてこの世に鳥になって生まれてきてると。
或いは自分が前世では鳥であったのかも分からない。
その父かぞと思う、母かぞと思うという歌なんですね。
だから昔の人は皆そういうふうに、動物でもね、ひょっとしたら自分の前世の何かだったんだろうかと、いうふうな考えを持ったもんですよ。
もう一つその話があったんですが、誰の伝記だったのか忘れましたが、ある旅僧が歩いていましたら、百姓の人が牛をこう持って耕してるんですね、田畑を。
ところがその牛がなかなか動かない。
そんなだから牛をビシビシと打つんですよ。
作品名:和尚さんの法話 『仏教の説く道徳』 作家名:みわ