和尚さんの法話 『仏教の説く道徳』
「心の問題」
仏教が一般道徳に求むということも、絶対にありえないことです。
道徳というものは、そのまま仏教の教えの中にも入っているわけです。
ただ、一般道徳ではちょっと言葉として出てこないようなデリケートな、
といいますか、そういう部分があるんですね。
特にそれが、表に表れた行動というよりも、心の問題ですわね。
仏教では何遍もお話していることですので、ご理解いただいていると思いますが、
人間の行いというものは、もちろんこの身体を動かして行う行いと、
これを身体の業といいますね。
身業はこの体ですね。
口でも行う、優しい言葉を使う、或いは悪口を言うことが口業。
意業があります。
意というのは、心ですね。
身業、口業、意業と、こうありますが、仏教ではこの心に重きを置きますので、
我々人間は、肉体と心と両方持ってますけれども、あの世へ行きましたらもう
心だけになってしまう。
あの世へ行きましたら、体も心から表れるんですよ。これは唯識の原理から言
いますとね。
あの世へ行きましたら、肉体というのは無いんです。肉体は無いけれども体は
あるですよ。
たとえば地獄とか、餓鬼とか、皆体を持って、本当はそれは仮の体やけれども、
肉体のような体ではないんだけれども、罪が深いために体だと思い込んでるん
ですね。
だから体が痛むと、苦しむというようなことになるんですが、あの世の体は皆
心から現れているんですよ。
だからその、境地がだんだんと上って、欲界を卒業して色界、色界も卒業して
無色界と、こう上へ上へと上っていくと、そこの道理が良くわかってきて心し
かないんだということが分かってくるんです。
煩悩といい、悟りといい皆心だということが分かってくるわけです。
それを全部悟ってしまったら、三界を出る、生死解脱する。
輪廻を解脱すると、こういうことですね。
仏教はあくまでも宗教でございますから道徳だけではないんですね、
道徳はその宗教の救い、仏教では解脱とこう申しますが、そのひと
つの手立てとして、悪いことをしながら救われるということはない
ですからね。
やっぱり良い行いをしなければ救いというこのはありえないのであ
って。
それでは良いことだけしてたら救われるかというと、そこなんです
ね。
良いことだけやってて救われるというんだったら改めて宗教という
のはいらないんで、道徳だけでいいんですけれども、道徳だけでは
救われない。
死んで世へ行きますと、良い世界と悪い世界とありますよね、
つまり、楽な世界と苦の世界とあるわけです。
で、道徳で申しましたら、道徳的に悪いことばっかりしてましたら、
苦の世界へ行かんならんと、道徳的に。
信仰とか宗教とか別にしまして、道徳だけの話でね、道徳だけ一所
懸命に守って、正しい行いをして立派な人やと、信仰は別に無いと、
宗教も持ってない。
そういう人はどこへ行くかというと、良いところへ行くんですね。
決してその地獄とか、餓鬼とか畜生とかそういう三悪道といいます
ね。
三つの悪道。そういう所へは行かない。
若し行くとすれば良い行いにも上中下と、こう区別がありますわね。
それによって、大雑把に分ければ、修羅へ行くか、それか人間に、
再び人間に成るか、それか天上界へ行くか、この三つの世界を三悪
道に対して三善道と、こういう仕組みにあの世はなってますから。
で、道徳で完全無欠な道徳を行ってきた。とても立派な方だと人に
言われるような、百点満点の道徳。
例えば、孔子とか孟子とかはそうだと思いますが、そういう方は、
天上界へ行ってると思いますね。
ところが、宗教をお持ちでないから、解脱は出来ないですね。
そこが問題なんですね。
仏教は宗教でございますから、どうしても悟るというか、救われ
ないといけませんね。
その救われる一番の根本は、悪いことをしたら絶対に救われない
のだから、兎に角、悪いことをしない、善いことをするというこ
とですね。
そしてその善いことにも、その角度があるわけですね。
善いこの方向、この角度から善いことをするとか、要するに、同
じ行いでもその人の心がけによって違ってくる。
例えば、布施という言葉がありますが、仏教でも布施ということ
をよく言いますが、これは人の苦しみを助けることになりますね。
然しながらその布施でも、喜んでするのと、仕方無しにするのとでは、
これはまた違ってきますね。
そういう心の問題ですね。
ただ外から見ただけで、あの人は善いことをしていると、言うだけで
はすまないのです。
その心はどんな心で思って、どんな精神状態で行っているかによって、
判定が違ってくる。
仏教的に道徳を追求していきますと、そういう問題があるわけなんで
すね。
ご承知のとうり現在は、まことに嘆かわしい時代でありまして、人道
地に落ちたりという時代でございます。
全てのものが歪んでしまったというのか、良心が麻痺してしまってい
るというか。
まず、羞恥心が麻痺していると思うのです。
とくに女性の魅力は羞恥心が多分にあると。
自ずから姿に表れた場合には、とても魅力がある。
例えば、バスへ乗っていても、列車でもよく見かけますが、女性が鏡
を見ながら平気で化粧をする。
これはもう最近では普通になってきていますね。
化粧をする本人も麻痺してしまっているし、見るほうも麻痺してくる
のですね、しょっちゅうこういうのを見てしまいますから。
最近では男性が真っ赤な服を着るというのも、平気になってきていま
すが、戦前は男性が赤い衣服を着るというのは、笑われたそうです。
男性が赤い着物とか襦袢とかを着ると笑われた。
ところが戦後、アメリカの風習によって、男性が赤い衣服を着るのが
多くなって、今ではもうちっとも、抵抗を感じなくなってきて、着る
人も見る人も普通だと思って見ますわね。
こういうふうに、いつも見ていると慣れっこになってきて抵抗を感じ
ない。
善いことならいいのですが、悪いことをして悪いことが当たり前と、
言うことになってきたら世の中がこうだから、どうしようもないと、
周りの者も当たり前だと認めている、というふうになると、まことに
怖い時代になってきますね。
これは単純な考えかもしれませんけれども最近思うのですが、現在は
怖いものが無くなってきているのですね。
昔は、警察が怖いと思ったものです。
悪いことをすると巡査に連れて行ってもらうよと、親がよく言ったも
のです。
それがとても怖いと思った。
ところが現在は、警察のほうが一般の若い者を怖がるというような時
代になってきました。
「無始以来」
例えばあの世を考えてみましたら、地獄というのがございますね。
地獄はまことに怖いところなんですよね。
だからあの世でも、仏様の世界にでも地獄という恐ろしい世界を設けてあるのですよ。
地獄へ落とさないと、いうことを聞かない者が居るから。
お地蔵様のような、ご慈悲ばっかりでは、救われない者が居るんですね。
仏教が一般道徳に求むということも、絶対にありえないことです。
道徳というものは、そのまま仏教の教えの中にも入っているわけです。
ただ、一般道徳ではちょっと言葉として出てこないようなデリケートな、
といいますか、そういう部分があるんですね。
特にそれが、表に表れた行動というよりも、心の問題ですわね。
仏教では何遍もお話していることですので、ご理解いただいていると思いますが、
人間の行いというものは、もちろんこの身体を動かして行う行いと、
これを身体の業といいますね。
身業はこの体ですね。
口でも行う、優しい言葉を使う、或いは悪口を言うことが口業。
意業があります。
意というのは、心ですね。
身業、口業、意業と、こうありますが、仏教ではこの心に重きを置きますので、
我々人間は、肉体と心と両方持ってますけれども、あの世へ行きましたらもう
心だけになってしまう。
あの世へ行きましたら、体も心から表れるんですよ。これは唯識の原理から言
いますとね。
あの世へ行きましたら、肉体というのは無いんです。肉体は無いけれども体は
あるですよ。
たとえば地獄とか、餓鬼とか、皆体を持って、本当はそれは仮の体やけれども、
肉体のような体ではないんだけれども、罪が深いために体だと思い込んでるん
ですね。
だから体が痛むと、苦しむというようなことになるんですが、あの世の体は皆
心から現れているんですよ。
だからその、境地がだんだんと上って、欲界を卒業して色界、色界も卒業して
無色界と、こう上へ上へと上っていくと、そこの道理が良くわかってきて心し
かないんだということが分かってくるんです。
煩悩といい、悟りといい皆心だということが分かってくるわけです。
それを全部悟ってしまったら、三界を出る、生死解脱する。
輪廻を解脱すると、こういうことですね。
仏教はあくまでも宗教でございますから道徳だけではないんですね、
道徳はその宗教の救い、仏教では解脱とこう申しますが、そのひと
つの手立てとして、悪いことをしながら救われるということはない
ですからね。
やっぱり良い行いをしなければ救いというこのはありえないのであ
って。
それでは良いことだけしてたら救われるかというと、そこなんです
ね。
良いことだけやってて救われるというんだったら改めて宗教という
のはいらないんで、道徳だけでいいんですけれども、道徳だけでは
救われない。
死んで世へ行きますと、良い世界と悪い世界とありますよね、
つまり、楽な世界と苦の世界とあるわけです。
で、道徳で申しましたら、道徳的に悪いことばっかりしてましたら、
苦の世界へ行かんならんと、道徳的に。
信仰とか宗教とか別にしまして、道徳だけの話でね、道徳だけ一所
懸命に守って、正しい行いをして立派な人やと、信仰は別に無いと、
宗教も持ってない。
そういう人はどこへ行くかというと、良いところへ行くんですね。
決してその地獄とか、餓鬼とか畜生とかそういう三悪道といいます
ね。
三つの悪道。そういう所へは行かない。
若し行くとすれば良い行いにも上中下と、こう区別がありますわね。
それによって、大雑把に分ければ、修羅へ行くか、それか人間に、
再び人間に成るか、それか天上界へ行くか、この三つの世界を三悪
道に対して三善道と、こういう仕組みにあの世はなってますから。
で、道徳で完全無欠な道徳を行ってきた。とても立派な方だと人に
言われるような、百点満点の道徳。
例えば、孔子とか孟子とかはそうだと思いますが、そういう方は、
天上界へ行ってると思いますね。
ところが、宗教をお持ちでないから、解脱は出来ないですね。
そこが問題なんですね。
仏教は宗教でございますから、どうしても悟るというか、救われ
ないといけませんね。
その救われる一番の根本は、悪いことをしたら絶対に救われない
のだから、兎に角、悪いことをしない、善いことをするというこ
とですね。
そしてその善いことにも、その角度があるわけですね。
善いこの方向、この角度から善いことをするとか、要するに、同
じ行いでもその人の心がけによって違ってくる。
例えば、布施という言葉がありますが、仏教でも布施ということ
をよく言いますが、これは人の苦しみを助けることになりますね。
然しながらその布施でも、喜んでするのと、仕方無しにするのとでは、
これはまた違ってきますね。
そういう心の問題ですね。
ただ外から見ただけで、あの人は善いことをしていると、言うだけで
はすまないのです。
その心はどんな心で思って、どんな精神状態で行っているかによって、
判定が違ってくる。
仏教的に道徳を追求していきますと、そういう問題があるわけなんで
すね。
ご承知のとうり現在は、まことに嘆かわしい時代でありまして、人道
地に落ちたりという時代でございます。
全てのものが歪んでしまったというのか、良心が麻痺してしまってい
るというか。
まず、羞恥心が麻痺していると思うのです。
とくに女性の魅力は羞恥心が多分にあると。
自ずから姿に表れた場合には、とても魅力がある。
例えば、バスへ乗っていても、列車でもよく見かけますが、女性が鏡
を見ながら平気で化粧をする。
これはもう最近では普通になってきていますね。
化粧をする本人も麻痺してしまっているし、見るほうも麻痺してくる
のですね、しょっちゅうこういうのを見てしまいますから。
最近では男性が真っ赤な服を着るというのも、平気になってきていま
すが、戦前は男性が赤い衣服を着るというのは、笑われたそうです。
男性が赤い着物とか襦袢とかを着ると笑われた。
ところが戦後、アメリカの風習によって、男性が赤い衣服を着るのが
多くなって、今ではもうちっとも、抵抗を感じなくなってきて、着る
人も見る人も普通だと思って見ますわね。
こういうふうに、いつも見ていると慣れっこになってきて抵抗を感じ
ない。
善いことならいいのですが、悪いことをして悪いことが当たり前と、
言うことになってきたら世の中がこうだから、どうしようもないと、
周りの者も当たり前だと認めている、というふうになると、まことに
怖い時代になってきますね。
これは単純な考えかもしれませんけれども最近思うのですが、現在は
怖いものが無くなってきているのですね。
昔は、警察が怖いと思ったものです。
悪いことをすると巡査に連れて行ってもらうよと、親がよく言ったも
のです。
それがとても怖いと思った。
ところが現在は、警察のほうが一般の若い者を怖がるというような時
代になってきました。
「無始以来」
例えばあの世を考えてみましたら、地獄というのがございますね。
地獄はまことに怖いところなんですよね。
だからあの世でも、仏様の世界にでも地獄という恐ろしい世界を設けてあるのですよ。
地獄へ落とさないと、いうことを聞かない者が居るから。
お地蔵様のような、ご慈悲ばっかりでは、救われない者が居るんですね。
作品名:和尚さんの法話 『仏教の説く道徳』 作家名:みわ