和尚さんの法話 『人身受け難し今已受く仏法聞き難し今已聞く』
そこで時宗の一遍上人というのが、この言葉に感銘を受けて、そうだ一遍でも助かるんだと。
お釈迦様がそうおっしゃってるんだから。
それで一遍という名前を付けたんですね。
但し、これは今息を引き取って行くというときの、十念であり、一念です。
今息を引き取る。つまり臨終。
この臨終は、お医者さんが言うときはもう死んだときに、今死んだなと思うたときにご臨終ですといいますね。
これは本当は仏教は、まだ終りに臨むというわけで、まだ死んでいないんですよ。
「臨終」
これから死んでいくという時を、臨終というのです。
終りに臨んで進んでいくと。
言葉は仏教の言葉ですけどね。医者が言う言葉は。
ご臨終というのは、まだ残ってるという意味ですよね。命がまだ残ってる。
然しながらもう死に近づいている。これが本当の臨終なんです。
だから是から死んでいくという時の、念仏です。
今我々は平生ですね。
平生か臨終か。
一遍でもいいというと、平生に南無阿弥陀仏、と一遍だけ称える。
そしてもう後はなにも称えないし信仰もしない。
それで死んだら極楽往生出来るのかと。そんな安易なものではないですよね。
平生に元気なときに十篇にしても千篇でも大したことはないですよね。
千篇称えて、これでもう死ぬ用意は出来たと。
何時臨終がきても構わないと。いうようなものじゃないですね。
これは臨終の十念であり、臨終の一念です。
臨終というのは、もう命を失う時ですよ。
大体そのときは、いろいろなことが起こってくるそうですよ。
恨みつらみが襲ってきたり、あの人に世話になったというようなことも起こってきたり、今死んだらどうなるかというようなことが起こってきたり、子供たちは上手くやっていけるだろうかと、いろんなことが起こってくる。
そういう最中に、そんなことは忘れてしまって、只至心に南無阿弥陀仏と、称えることは並大抵のことではない。
そこを阿弥陀様が引き取ってくれる。
お前はもう他の事は思わないで、只私のところへ生まれたいと念仏を称えるのかと。それなら来なさいと。
そういうことをおっしゃってるんです。
それならば、臨終の十念、一念ならば、逆に元気なときはしたいことをして、いよいよもう死ぬのが近いなと、さあそれならば念仏を称えようかと。
これが出来ればいいんですよ。ところが、なかなかそうは問屋が卸してくれないんですね。
だいたいが呆けてきますね。呆けてきてしまったら、平生にそう思ってたって、臨終になったら称えますよなんて思ってたら、それまでに呆けてしまったら、そんなことは忘れてしまいますよ。
だから呆けましたら、もう絶対に極楽往生は出来ません。
信心というのは、なかなかその信心決定というのが難しいですね。
阿弥陀様とか、お地蔵様とか、寝ても覚めても阿弥陀様、お地蔵様という境地ですよ。
そういう気持ちになったら自然に念仏が出るんですね。
だから臨終に念仏、十念、一念を踏み外さないがために、平生から念仏を称えておかないと、いざ臨終という時になって、なかなかそうはいかんのですね。
習い事と同じですね。
本番のために練習しますね。
習い事でもいざひのき舞台に出たら、どんなに稽古をしていたって、どじったということになるでしょ。
況や、自分の一生の問題で、平素はちっともしてなくて、さあ臨終という檜舞台へ、となってもなかなか念仏は出ない。
平素から称えてあっても、死ぬときとなったらなかなかそうはいかない。
つまり、本当の信心がなかなか得られてないということです。
それは、はっきりその証拠があるんです。
和尚さんのお父さんが何時も、なんまんだぶ、なんまんだぶと称えていたそうです。
それはもう、よくもあんなに念仏を称えられたものだと思うくらいに称えていたそうです。
和尚さんも年をとったらお父さんのように称えるようになるのかと思うて聞いていたそうです。
昔は暖房というと、火鉢だけですわね。外から帰ってきたら、寒いですから火鉢に手を暖めて、あーなんまんだぶ、なんまんだぶと。そしてお風呂に入っても、あーなんまんだぶ、なんまんだぶと。
そういうふうにたびたびにやっていたそうです。
ところが、死ぬ病気になって寝付いたらもう、ぷつっとお念仏が出なくなった。
それで、そのとき和尚さんはお父さんに、お父さん、極楽は信じられるんですかと聞いた。
すると、半信半疑やなと言ったそうです。
半信半疑だから、そうなるんですね。
本気でまるまる百パーセント信じてられたらそんなことにはならないと。
それは臨終になってからでは、なかなかそうはいかんのですね。
習い事でもそうですね、五年も十年も習って、極意を得るかどうかではないのですか。
信仰は技術じゃないけれども、人によっては知らず知らずに積み重なっていくうちに、だんだんと本当の信仰に入るタイプと、或る時にぽっと入るタイプと二つあるそうです。
覚りでもそうだと。ぱっと覚るタイプと、だんだんと覚っていくタイプと。
信仰もそうだそうです。
我々自分の信仰がどんなタイプか分かりませんからね、兎に角、励んでいませんとね。
信心が決定したら、阿弥陀さんとか他の仏さんも、掴んで離しませんから。
うろうろしてたって教えてくれますから。眼を覚ましてくれますから、それはもう必ず大丈夫なんです。
だからそういう境地は、臨終じゃ間に合わんのです。
平生にしておかないと、いざ臨終になったらもう遅い。
そういうことが平生に出来てあったら、必ず臨終になったらお念仏が十編出るんですね。
出るというのは、出してくれるんです。
阿弥陀様のお眼鏡に叶っているから出してくれるんですね。そういうことなんです。
兎に角、人身は受け難し、仏法は遭い難しということです。
過去に無数の仏有りというのに、我々はどういうことをしてきたのか。
こうして法話を知ることが出来た人は、前世でも仏縁があった人たちだと私は思うのです。
仏縁が無かったら、法話ですよと言ってもなかなか読まない。
だからこのご縁を大切にして頂いて、後生の悔いの無いようにお願い致したいと思います。
仏様も菩薩様もそうですが、目的は自分だけが仏に成り菩薩に成るだけじゃなくて、皆そうして成仏すると皆が幸せになっていくのですから。
仏や菩薩にはもう煩悩がありませんから。
煩悩が不幸なんですからね。
ああだこうだと悩むのは煩悩なんですから。
ところが覚ってしまったら、もう煩悩が無くなってしまうんですね、それが幸福なんですよ。
だから皆を引き上げていこうとするのは皆幸せにしていこうということなんです。
若し仮に、そういうことはなかなか有り得ないのですが、皆が菩薩と成り、仏に成ったら、もう人間は無くなるんです。人類は無くなるわけです。
普通の考えからいうと人類が滅亡すると困ると言いますね。
仏法の建て前からいうと、人類が滅亡するのが理想なんですね。
地獄も餓鬼も無い、修羅も無い畜生も人間も無い、天上界も皆仏に成っていく。
そして仏の世界ばかりになるというのが理想ですね。
作品名:和尚さんの法話 『人身受け難し今已受く仏法聞き難し今已聞く』 作家名:みわ