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和尚さんの法話 『人身受け難し今已受く仏法聞き難し今已聞く』

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今は法蔵菩薩だけど、未来は阿弥陀如来という名の如来様に成りますと。

そして私の国、極楽浄土へ生まれたいと思うて、私の名、つまり阿弥陀如来の名を称える者は、例え十篇でもいいから称える者がありましたら、必ず私は浄土へ引き取りますと。

こういう誓いをたてたんです。

その誓いをたてて、現在は如来ですね、極楽浄土が出来てます。

この間にどれくらいの時間がかかっているか、法蔵菩薩が阿弥陀如来に成るまでの時間ですね。

五劫という時間がかかってるんですね。

仏教の数から言いますと、わりと短い。

ところが、この一劫、二劫という時間は、以前にも云いましたように、四十里四方の石があって、百年に一遍、天人が降りてきて羽衣の裾でその石を擦るんです。

また百年たったら下りてきて石を擦る。

羽衣の裾で石を擦り減らしてしまって、一劫です。

これはもう例えないとしょうがないですね。それの五劫です。

百劫というような数からいうと短いですよね。

お経にありますが、無常甚深微妙法、百千万劫難遭遇とありますね。

百千万劫にも遭い遇うこと難しですね。

無常甚深微妙法というのは、仏教のことです。

その仏教に遭うのが、百千万劫にも遭い遇うこと難し。

先ほどの例えとよく似てますね。

だから五劫というと、わりと短いですよね。それでも一劫の時間がそれですからね。そう思うとそれはやっぱり長い。

そして五劫たって、法蔵菩薩が阿弥陀如来に成ったと。

その如来に成ってから今日までの時間。これが十劫なんです。

阿弥陀様が極楽浄土をお作りになって、今日までの時間が十劫。

この十劫という時間は、一劫という時間を考えますと、それはもう長い時間ですね。

その間に、阿弥陀様がいらっしゃる極楽があったわけなんですよ。

ところが我々はまだ往生出来て無いということは、その阿弥陀様の本願に遭ったのか遭わなかったのか知らないけれども、その十劫という間は、救われていなかったということは間違いがない。

極楽へ行ってないんだからね。

先ほどのお話しにバラモンが、過去に無数の仏が有ると。

未来にも無数の仏が有ると。

それで過去の仏の数がそれだけの数の仏さんがお出ましになっているのに、自分は今日まで救われてこなかった。

だから未来はあてにならんと。過去も無数の仏に遭えなかったんだから、未来に無数の仏に遭えないかもわからないと。

それならば今ここでと、決心をしたんですね。

だから我々が、過去十劫の間、弥陀の本願が成立しているのに、我々はその本願に遭ったのか遭わなかったのか。

遭っても本気に信じなかったに違いない。

だから今日極楽へ往生していない。という証拠がありますね。

この身今生に向かって度せずんばと。お経をすらっと読んでいたら気付きませんけどね。

このように裏話を聞かされると、ちっとは皆さんも緊張してきますよね。
と思うのですが。

兎に角、今日のことに何時死ぬか分かりませんわね。

いくら元気だといったって分かりませんよね。

ちょっと気分が悪いからというわけじゃない、元気でも急に死ぬか分からない。

だから何時死ぬか分からないということを考えておかないといけませんね。

明日はどうなるか分からないということを考えておかないといけませんね。

病気ばかりじゃありません、事故もありますね。

人は事故に遭うけど自分は大丈夫だと、そんなわけにはいきませんね。

目連でも殺されたんですからね。

目連のような、あんな高貴な坊さんが、阿羅漢さんでも殺されると、そういう業を持ってたんだから。

だから我々はどんな業を持って生まれてきたかわからないですね。

この世で業が出なかったら、もう無いのかと、そうじゃありません。

来世で出る。是余ので芽が吹かなくても来世で芽が吹く。そんな業が幾らもあるんですから。

前世で芽が吹かなかったから、この世で芽が吹く。

仮に、過去百劫の間芽が吹かなかった業でも、今度次に芽が吹いてくるかも分からない。


全ての業が一斉に芽が吹くというのではないんですよね。

早いのもあれば遅いのもある。

お釈迦様でもそうですね。

過去八千遍この世へ生まれ変わってきている。

過去往来八千遍という言葉があるんです。

それだけ輪廻したということです。

だからその時代に、仏さんになるかでに凡夫の時代もあったんです。

だから罪も積んだんですね。地獄へ落ちるようなこともしてるんです。

地獄へ落ちてたとお釈迦さんがおっしゃってる。

自分も地獄へ落ちたんだと、そして一緒に地獄へ落ちた者も、鬼に責められて叩かれてると。

それを見て、如何にも遭われと思うて、思わずその罪人の上へかぶさったというのです。身代りにね。

その功徳で、地獄から出ることが出来たんだと。

それから思い知って、だんだんと真面目になって、それからはもう地獄へ落ちるようなことはなかったと。

そういう地獄へ落ちたこともあるということをお経に説いてあります。

だから我々も地獄へ落ちていたに違いないですよね。

ようよう這い上がってきたんですよ。

もう再び地獄に落ちるようなことの無いように、早く、例えば極楽浄土を願うとか。

極楽が一番行き易いんですから。

南無阿弥陀仏と称えるだけですから。

只、行き易くして行く者無しと。

法然上人のお言葉ですね。極楽は行き易くして人無しと。

こんな行き易い所なのに行く人がいない。

つまり、信心が起こらないんですね。

望まないと行けませんからね。

この辺が真宗とちょっと違うところでして、至心ニ信楽(しんよう)シテ我ガ国ニ生ゼント欲シ乃至十念センニ若シ生ゼズンバ正覚ヲ取ラジ

だからこの言葉は、単なる文章や、単なる言葉のあやとして使ってるんじゃなくて、これはこのまま実行しないといけませんよね。

この至心というのは、心の極限で一心不乱と、阿弥陀経の中には一心不乱というのがありますね。

若一日、若二日、一心不乱とありますね。それと一緒ですね。

至心に、一所懸命に信心して、我が国というのは、阿弥陀様の浄土ですね。

極楽浄土に生まれようと思わないといかん。思えよと説いてあるのだから思わないといけませんね。

阿弥陀様が思え、とおっしゃってるのだから思わないといかん。

そして十念称えよと。十念ですから最小限十念。多いのは構わないのです。
最小限十念とお経に説いてあるのだから、十念ですね。

乃至十念ですから是以上は構わない。

ところが幸いなことに、お釈迦様がこの同じ今日のなかに、乃至一念ということをおっしゃってるんです。

阿弥陀様が十念と言うたけど、一念でもいいんだぞと。

乃至一念というお言葉があるんですよ。

だから阿弥陀様もお釈迦様も、お二人共仏様ですからね。だから同じ仏様がおっしゃっても、片一方が正しい、片一方が間違いというようなことはない。どっちも正しいのです。

仏様のおっしゃってることは、どちらも正しい。

どちらも正しいのなら、楽なほうを取らせて頂いたほうがいいですよね。

だから一遍でもいいのです。