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和尚さんの法話 『人身受け難し今已受く仏法聞き難し今已聞く』

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ところが仏教教団に入ったら厳正な戒律があるのを見て知ってるから、窮屈だろうなと思って、また次の仏様に、という気になって帰るんです。

ところがその時は、次の仏様だけ聞いて、過去の仏様を聞かなかったんですね。

過去に仏様はあるのか、何人あるのかと、これを念のために聞いておかないとならんなと思って、また引き返して来て、そしてお釈迦様に、お尋ねしますが、過去には仏様はどれくらいいますか、有るんですか、無いのですかと聞いた。

お釈迦様は、過去には無数の仏有りと。

未来にも無数の仏が有るが、過去にも無数の仏が有ると。

恒河砂数の仏が有ると。

それを聞いたときに、それが仏縁ですね、がんと胸を打ったんですね。

過去にも無数の仏が有ると言われたときに、がんと胸を打った。

それはどういうことかと申しますと、無数なんですよね。

五人や十人じゃない、無数なんですよ。

浜の真砂の数といいますが、砂というものは、分けたら小さい粒がいっぱい集まって浜辺に広がってますが、手に掬うて見ると、小さい粒ですね。

その粒の一粒、一粒を言ってるんです。

ガンジス河の真砂の数というのは、その小さい一粒一粒を言ってるわけです。

だからこれはもう数えられないですね。

そういう仏様が、次から次からと出てきて、そして今、お釈迦様なんですよ。

そうすると、自分も生まれ変わり繰り返し繰り返し来てるんです。

その間に、今お釈迦様とお会いしているように、過去世に於いて仏様にお会いしたのか、してないのか分からんけれども、今日まで自分は仏教を勉強していなかったということは間違いが無い。

初めてその気になって、是は、未来に無数の仏様が出てくると言われても、第一遭うか遭わないか分からない。

遭ったところでまた其の気を起こすかどうか分からん、今、帰ろうかと思ったように其の気になるかどうか分からない。

前世もそうだったのと違うだろうか、そんな気でいつも仏様を逃してきているのと違うんだろうかと、そういう気になって、そうすると、今此処でこの仏様に救われなければ、例え真砂の数ほどの仏様がお出ましになるとはおっしゃったけれども、その仏様に救われるというあては無い。

此処でこの仏様に救われなければと、こういう気になったんですね。

無数の仏様が過去に有るといいながら。

我々もそうですよ。これは我々の話しですよ。

過去に無数の仏様がお出ましになったのに、ところが本気になって修行をして信心して救われなかったということですよ。

舎利弗、目連という方は、ちゃんと救われているのに、我々は救われていない。

過去に遭ったかどうか分からないけど、遭ったにしてもいい加減な遭い方といいますかね。

そしてそのバラモンが、そのことを覚ったんですね。

過去に無数の仏様が有ると言われながら救われてなかった。

未来にも無数の仏様が出ると言うけど、あてにならん。

それでは今此処で、とそういう気になってお弟子になったというお経がありますね。

人身受け難し今已受く。仏法聞き難し。

聞き難しといいますが遭い難しともいいますが同じですね。

今已聞く。この見今生に向かって度せずんばということは、この一生の間に信心獲得をしておかないと、未来は分からない。

折角ここまで来てるのにまた落ちるという懼(おそ)れががありますからね。

一直線に行くのなら結構ですが、落ちる惧れがありますね。

輪廻してるから。

それをその勘定に入れておきませんとね。


「弥陀の本願」

これは弥陀の本願も同じことだと思いますね。弥陀の本願は、南無阿弥陀仏によって救ってやるという、阿弥陀様がお誓いをたてられた、その弥陀の本願というものは、仏教では、仏様というのは完全無欠の仏様というのが始めからあるのじゃなくって、我々と同じ凡夫の時代を通過して、声聞と成り、縁覚と成り、菩薩と成りと、位がだんだん上がって、そして如来坂に成るんですよ。

だから一足飛びには成らないんですね。

仏教ではそうじゃなくて、お釈迦様でも或は大日如来様でも阿弥陀様でもいろんな如来様がいらっしゃいますね、薬師如来とか。

我々の知らない、浜の真砂の数ほどの仏様があると言われても分かりませんよね、阿弥陀経にもいろんな沢山の如来様の名前が出ますけど、おそらく我々はそんな名前の仏様を知らない。

そして有る所まできて、恒河砂数と、阿弥陀経にもそう出てきますね。

そして大無量寿経というお経を読みましても、阿弥陀様の本願のお建てになった由来が説かれてるんですね。

その阿弥陀様というお方も始めは凡夫だったと。

その凡夫の時代のお話しはお経の中に出て来ないけど、もう既に菩薩に成ったときからお経が始まってますね。法蔵菩薩ですね。

ところがお釈迦様が、お釈迦様も菩薩と成ってこの世へお生まれになってるんですよね。

菩薩となってこの世へお生まれになって、最後のご修行をなさいます。

ところが一旦は、国王の子供として生まれますね。

シッタ太子という名ですね。

その法蔵菩薩も、或る国の国王なんですよね。

其の時に、世自在王如来という仏様が、ちょうどお出ましになっていた。

それでその仏様にお会いすることが出来たんですね。

そこでその仏様の説法を聞いて、兎に角、そこまで修行をなさっている方ですからね。

忽ちもいうこんな在家に住んでいたらいかんと。国王だと思って有り難がって、こんなところへ住んでいたらいかんと思って、国王の位を捨てて、忽ちもう坊さんになって、法蔵菩薩という菩薩に成ったんですね。

もうそれだけ修行を積んだ人だったわけです。

そしてその世自在王如来様のお説法をお聞きして、その如来様とお誓いをするんですね。

私はこうしてこれから未来永劫仏門にね、おそらく前世でもそこで深く帰依した人なんですね。

また改めて決心するんでねすね。

そして生まれても生まれても仏門に入ってきた。

そして未来は必ず仏に成る。貴方様のように、私も仏の位に到達したい。

そして仏様に成りましたら、衆生を救わないといけませんから、菩薩でもそうですが、自分の浄土というものをお作りになるんですね、霊界へね。

極楽浄土というのは、阿弥陀様の浄土。お釈迦様にはお釈迦様の浄土があり、というように、仏様には皆自分の浄土というものがある。

浄土というのは、この空間に作ってるんですね。空間は無間ですからね。

不思議なことに、この空間というのは何処まで行っても何処まで行っても終わるという事は無い。無間に広い。

だから幾らでも浄土を作れるんですね。

自分も必ず如来と成りまして、そして浄土を作ります。

その浄土の名前は極楽という名前の浄土を作りますと。

そしてその極楽浄土の有り様は、こういう状態でこんな状態でと、その荘厳の姿をお経に言うてますね、こんなふうな浄土を作りたいと。

そしてこの国に、こういう者を救います、こういう者も救いますと皆救いたいと。

その中の幾つかのお誓いのなかの第十八番目にお建てになったのが、所謂、本願という誓いで、それは、南無阿弥陀仏と。

其の時私は阿弥陀如来という名の仏に成ります。