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和尚さんの法話 『人身受け難し今已受く仏法聞き難し今已聞く』

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そしてその板は、何百年、何千年と海に浮いていて、腐らないということに仮定するわけです。

普通だったら木の板ですから腐ってしまいますね。

それを腐らないというように仮定します。

そしてその辺りの無い海には、一匹の亀が住んでる。

そしてその亀の命ですが、鶴は千年、亀は万年と申しますが、そんなものじゃない、実際は万年も生きませんけども、然しながらこの亀は、亀の命は無間であると仮定するんですね。

何時までたっても死なない。

永久なんですね、これは例えですから。

そしてその亀は、目が見えない。

だからあそこへ行こうと思ったって行けない。

それこそめくらめっぽう(盲滅法)に泳ぎ回ってるんです。

そして百年に一遍、潜ってて海上に頭を出すんです。

百年間、海に潜って泳ぎ回ってて、そして百年たったら一遍だけ頭をあげると仮定するんです。

そして頭を上げたら、また百年間海に潜って泳ぎ回る。

また百年たったら頭を上げる。

そのことばっかり繰り返しているんです。

亀はめくらめっぽうに泳ぎ回ってて、目が見えませんから何処へいくか分かりませんわね。

その海には辺りが無い。

その板は、波のまにまに何処へ流れて行くか分からない、という状態ですね。

そして百年ごとに亀が頭を上げる。

或るときに、亀が頭を上げたときに、たまたまその板が浮いていて、そしてまたたまたま亀の頭がその節穴へぽんと入る。

そのチャンスですね。

そのチャンスに巡りあうのにどれくらいの時間がかかっているか。

何千年、何万年、何億年、どれくらいの時間がかかるのか想像できないような想像をしないとしょうがない。

それくらいのチャンスなんだと。

それが何かといいましたら、我々が仏法に遭うチャンスなんです。

勿論のこと、地獄や餓鬼、畜生、修羅に生まれていたら仏法に遭えませんよね。

遭っても分からないですから、遭って無いのと一緒です。

人間に生まれてたって、我々は当たり前だと思ってるが、必ずしもそうじゃない。

そしてお釈迦様の同じ時代に、同じ国に生まれて同じ時代に住みながらお釈迦様に会った人はないという人もあるんですね。

舎衛国という国ですね。インドというのは一つの大きな国ですが、舎衛国とかマガダ国とか国がたくさんあるわけですね。

日本の昔の大名の、今の県ですね。

インドには国にはそれぞれ王様が居られたんですね。

その舎衛国という国があるんでねすね。

それが祇園精舎のある国ですね。

その舎衛国に、お釈迦様が二十五年間お住まいになって、そしてお説法をなさった。

そして時々あっちの国、こっちの国とご教化に行くけれども、本拠は舎衛国ですね。

その舎衛国に二十五年間お住みになったんですね。

ところがその二十五年間のあいだに、この舎衛国の国民の三分の一は、お釈迦様のお説教を目の当たりに聞くことが出来た。

金口(こんく)の説法といって、お釈迦様の肉声のお説法を聞くことが出来たんですね。


そして次の三分の一の人は、今この舎衛国という国にお釈迦様という尊い仏様がいらっしゃる。

そして結構なお説法をお説きになっているそうな、という噂。

噂は聞いたけど、そこまで足を運んでいない。

お釈迦様のお説法を聞くことが出来なかった。

聞く気があっても行けないとか、全く聞く気が無いとか、噂だけは聞いたとか。

そして次の三分の一の国民は、全くその噂も聞かない。

勿論お説法も聞けなかった。そういうことがあるわけですね。

同じ国の同じ時代に、仏様と同じに生まれてきているのに聞くことが出来なかったんですね。

それほど仏法というものは遭い難いんですね。


或るお経の中に、バラモンという仏教以外のインドの宗教ですね、その或る人が、お釈迦様という方はめったにお生まれにならないそうだと。

仏様という方はね。

そして結構な法をお説きになる。

我々のバラモンという宗教よりも遥かに立派な法であるということで、どんどんとお弟子さんが増えていくわけです。

始めは五人しかなかったお弟子さんが、どんどんと増えたんですね。

そしてお覚りを開いて阿羅漢になったお弟子さんが千二百五十人になったんですね、何万という弟子のなかで。

阿羅漢といって、仏様になるまでに、三分の一の修行を卒業した人。

所謂、三界解脱した人。

輪廻から解脱した人が、千二百五十人あったということです。

そしてそのバラモンも、自分も仏様のお弟子にさせて頂こうかと思って、とりあえず仏様にまずお会いして、いろいろとお聞きして有り難い教えをお聞かせ頂きたいといって、或る日にお釈迦様を訪ねて行って、いろいろお聞きするんですね。

そして教えを聞いて、これはやっぱり仏門に入らないといかんなと、そういう気持ちになったんですね。

ところが、お釈迦様は仏様とおっしゃるそうだが、この仏様という方は、お釈迦様が後にも先にもお一人なのか。

仏様という方は、後にも出て来ない、先にも無いんだと、永遠にお一人なのか。

と、そういう疑問をもって、世尊よ、この仏様という方は、後にも先にも貴方様お一人ですかと。

それともまだ未来に仏様という方は出て来られるのですかと。

こういう質問をしたんですね。

それで、お釈迦様は、未来には無数の仏が有る。恒河砂数の仏が出てくる。

ガンジス河の砂の数ほどの仏様が、次から次から出て来られるぞと。

それでそのバラモンが安心して、そうなのかと。お釈迦様がお一人ならば何がなんでも、ここでお弟子にしてもらわないといかんかしらんけど、まだ仏様が次から次から出てくるというのであれば、その次の仏様に救われる。

その仏様に遭えなかったら、またその次の仏様に、それもだめなら次の仏様に、無数に仏様があるんだから、それだったらまあ気が楽だなと。

それならば今回はそういうことにしてご遠慮させて頂こう。

やはり仏門に入ったら窮屈になりますからね。

その当時の仏教教団は今の仏教と違いますからね。

厳正な戒律もありますからね。

バラモンというのは在家宗教ですから、今の我々と一緒ですね。

比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、とありますが、この比丘というのは、坊さんなんですね。

坊さんだから妻帯しない。

本当の昔の坊さんですね。

比丘尼は、尼さんですね。比丘というのは男性で、比丘尼は女性ですね。

これは本当の、真宗意外の明治までの坊さんの姿ですね。

これが比丘、比丘尼。

優婆塞、優婆夷(うばそく、うばい)というのは、在家の、在家に居って、肉食妻帯をしているけど、教会みたいのを作って教化する。

仏の道意外のことをしない。只肉食妻帯はしている。

こういう男性を優婆塞、女性を優婆夷。これを四衆といいますね。

今の坊さんは名前は坊さんと呼びますが、優婆塞ですよね。

もう在家の人と一緒で、只他の商売をしていない。

そういう人を優婆塞というのです。

だから今の坊さんは、優婆塞になるわけですね。

バラモンというのも、そういうようなね、仏教ではありませんけど、全部がそういう宗教らしいですね。だから楽ですね。