和尚さんの法話 『人身受け難し今已受く仏法聞き難し今已聞く』
「正法千年、像法千年、末法万年」
我々は、もう生まれたら何処かの檀家さんになるわけですが、
仏教というのは、日本へ入ってきて千年以上になるわけでし
て、我々が仏教徒であるということが、ちっとも不思議では
ない。
ごく当たり前のことのように思いますね。
それはまあ、考えるとそうなんですが、長い目で見た場合に、
その仏教というものは、例えばお釈迦様がおっしゃるには、
予言ですね。
正法千年、像法千年、末法万年。これで一万二千年ですね。
この一万二千年たったら、もう仏教はこの地上から無くなっ
てしまうと、こうおっしゃってるんですね。
それで、もう現在は末法に入っているわけで、末法に入って
もう五百年以上たってますかね。
この「正法」というのは、お釈迦様のご在世と同じような状
態が五百年という説もあるんですが、千年続くとされてるん
ですね。
修行もそのとうりするし、覚りもそのとうり開くし、お経
(教)はそのまま残ってる。お経は教えかもわかりませんね。
経(教)、行、証。ですね。
教えもお釈迦様のそのとうりの教えで、そのとうり行じて、
そのとうりの覚りを開いている。この三つがきちっと備わっ
ているのが、正法。
そしてこの「像法」になってきますと、教と行はあるけれど
も、証が無い。
教えもあり、そのとうり修行もするんですけども、人間その
ものが結局、その鈍い人が生まれてくる。
一所懸命に同じように修行をし、学ぶんですけれども、覚り
がなかなか開かれない。これが像法です。
「末法」になりましたら、この教えだけが残ってる。
行も証も無くなってしまって、教えだけなんです。
「行証絶えたる末世なり」という和讃の中に嘆いてますね。
ですからもう一万年も経てば仏法は無くなりますね。
仏法が無くなるということは、もう信じる人は無くなるとい
うことですね。
と、いうことは、その頃に生まれてくる人は、最早救われる
可能性が無くなってしまうということです。
こういうことを言いましたらなんですが、仏教に
遭わばければ救われないんです。仏教でなければ
救われない。こういうことですからね。
仏教の数字というものは、よく天文学的数字とい
いますが、仏教の数字と言うのはそれ以上に大き
な数字なんですね。
ですから、どうしてもそれは例えなければ、納得
してもらえないというので、いろんな例えを以て
お話しをなさいますね、お釈迦様は。
例えば、我々は人間に生まれてくる。
そしてまた仏法に遭う、ということの難しさ。
我々は当たり前のように、親があるんだから生ま
れてきて当たり前ではないかと思いますね。
ところが、そうじゃない。
その親を選んで、そこに生まれてくるべき因縁と
いうのがあるから、そこへ生まれてくるのであっ
ても、若しかしたらあそこへ生まれてくるかもわ
からんし、向こうへ生まれてくるかも分からんし、
或いは外国へ生まれてくるかも分からんが、然し
ながら日本のこの家に生まれてきたというのは、
必然的な因縁ですね。決まり事があるからそこね
生まれてきたんですね。
全てそうなんですね、仏教は決して偶然というこ
とは認めない。全ては決まってるんです。
ですから事故で亡くなって、もう数十秒早かった
ら、遅かったらと思いますね。
ちょっと時間がずれてたら助かってたんじゃない
かと。
それはその人はそこで死ななきゃならんというよ
うになってあるのです。
だからその人を人相で観たらきっと死相が出てあ
るに違いない。
それは全く偶然に思えますわね。
その日の、その時間にそこを通る。
その時間に上から岩石がおちてくる、というよう
なことがね。
ちょっとそのまえに車が故障とか、時間がずれて
たら助かってるんですよね。
ところがそうはならんのですね。
早くも遅くもならずにその時間にそこを通って事
故に遭って死ぬ。
というように決まってるんです。
ですから私たちが、こうして人間に生まれてきた
ということは、畜生に生まれずに人間に生まれて
きたんだということです。
畜生に比べたら有り難いですよね。
兎に角、仏教は下と比べて有り難がらないといか
んわけですね。
上を見れば限が無いですからね。
兎に角下に比べたら、地獄でなく餓鬼でなく畜生
でなく修羅でなく、人間に生まれてきてるんです
から、これはもう有り難いことですね。
人間に生まれてこなければ、たとえ仏法の世界に
生まれてきても、仏の法を聞く能力が無い。
馬の耳に念仏といいますが、能力が無い。
だから救われるには、少なくとも人間に生まれな
いことには、人間になってもなかなか仏法には遭
えないんだから。
兎に角人間に生まれなければ、救われる可能性が
無いわけですが、今その人間に生まれてるんだと、
今已人身を受け難しと、こういうことなんです。
他の動物に生まれずに、地獄にも落ちずに餓鬼や
畜生にも修羅に落ちずに人間に生まれてきたとい
うその可能性ですね。
それを例えたんですね、その例えは、お釈迦様が
ガンジス河の辺りを弟子を連れて歩いていたんで
すね。
そのガンジス河というのは、大きな海のような河
ですね。
向こう岸が遥か彼方に見えるほど広い河です。
そして沙も海岸の砂のようなのがいっぱいある。
そこを通られたんですね。
そして沙を足ですくわれるのですね、すると足の
指の爪の上にわずかな砂が残りますね。
そして弟子たちに、私が今足で砂をすくって、砂
が足の五本の指の爪の上に乗ってる砂の量。
この砂の量と、ガンジス河の砂の量と、どちらが
多いと思うかと。
そしたら、それはもう例えにはなりませんと。
爪の上の砂はわずかなもので、ひと握りも無い。
ところがこのガンジス河の砂の量というのは、こ
れはもう測りきれない量ですと。
そうであろう。
今私がすくった五本の指の爪の上に乗った砂の数
が、人間の数だとすれば、人間以外の生類の数と
いうのは、このガンジス河の砂の量に匹敵するん
だと。
だから人間に生まれるとうことが、如何に少ない
ということになるのかということを認識しなけれ
ばいけない。
と、こういうお経があります。
「仏法に遭えるチャンス」
ガンジスの砂というのは、日本の河の砂と違って、パウダーのように細かい砂です。
爪上の砂(そうじょうのすな)というお経があるのです。
それから、人間に生まれても、ところがなかなか仏教に遭えない。
遭えるチャンスですね。
これも有名な例えがございまして。
海があって、この地球の海というのは、何処に海岸があって、海の向こうに何処の国があってと、海に際がありますね。
海にも限度がありますね。
ところが、これは例えですから何処まで行っても、何処まで行っても辺りが無いという例えなんです。
そんな海は有り得ないんですけど、例えですから何処までも海が続いているんです。岸部が無い。
そしてその海に、一メートル四方くらいの板が一枚浮いてると仮定して。
その板には一つ、節穴が開いてると仮定して。
我々は、もう生まれたら何処かの檀家さんになるわけですが、
仏教というのは、日本へ入ってきて千年以上になるわけでし
て、我々が仏教徒であるということが、ちっとも不思議では
ない。
ごく当たり前のことのように思いますね。
それはまあ、考えるとそうなんですが、長い目で見た場合に、
その仏教というものは、例えばお釈迦様がおっしゃるには、
予言ですね。
正法千年、像法千年、末法万年。これで一万二千年ですね。
この一万二千年たったら、もう仏教はこの地上から無くなっ
てしまうと、こうおっしゃってるんですね。
それで、もう現在は末法に入っているわけで、末法に入って
もう五百年以上たってますかね。
この「正法」というのは、お釈迦様のご在世と同じような状
態が五百年という説もあるんですが、千年続くとされてるん
ですね。
修行もそのとうりするし、覚りもそのとうり開くし、お経
(教)はそのまま残ってる。お経は教えかもわかりませんね。
経(教)、行、証。ですね。
教えもお釈迦様のそのとうりの教えで、そのとうり行じて、
そのとうりの覚りを開いている。この三つがきちっと備わっ
ているのが、正法。
そしてこの「像法」になってきますと、教と行はあるけれど
も、証が無い。
教えもあり、そのとうり修行もするんですけども、人間その
ものが結局、その鈍い人が生まれてくる。
一所懸命に同じように修行をし、学ぶんですけれども、覚り
がなかなか開かれない。これが像法です。
「末法」になりましたら、この教えだけが残ってる。
行も証も無くなってしまって、教えだけなんです。
「行証絶えたる末世なり」という和讃の中に嘆いてますね。
ですからもう一万年も経てば仏法は無くなりますね。
仏法が無くなるということは、もう信じる人は無くなるとい
うことですね。
と、いうことは、その頃に生まれてくる人は、最早救われる
可能性が無くなってしまうということです。
こういうことを言いましたらなんですが、仏教に
遭わばければ救われないんです。仏教でなければ
救われない。こういうことですからね。
仏教の数字というものは、よく天文学的数字とい
いますが、仏教の数字と言うのはそれ以上に大き
な数字なんですね。
ですから、どうしてもそれは例えなければ、納得
してもらえないというので、いろんな例えを以て
お話しをなさいますね、お釈迦様は。
例えば、我々は人間に生まれてくる。
そしてまた仏法に遭う、ということの難しさ。
我々は当たり前のように、親があるんだから生ま
れてきて当たり前ではないかと思いますね。
ところが、そうじゃない。
その親を選んで、そこに生まれてくるべき因縁と
いうのがあるから、そこへ生まれてくるのであっ
ても、若しかしたらあそこへ生まれてくるかもわ
からんし、向こうへ生まれてくるかも分からんし、
或いは外国へ生まれてくるかも分からんが、然し
ながら日本のこの家に生まれてきたというのは、
必然的な因縁ですね。決まり事があるからそこね
生まれてきたんですね。
全てそうなんですね、仏教は決して偶然というこ
とは認めない。全ては決まってるんです。
ですから事故で亡くなって、もう数十秒早かった
ら、遅かったらと思いますね。
ちょっと時間がずれてたら助かってたんじゃない
かと。
それはその人はそこで死ななきゃならんというよ
うになってあるのです。
だからその人を人相で観たらきっと死相が出てあ
るに違いない。
それは全く偶然に思えますわね。
その日の、その時間にそこを通る。
その時間に上から岩石がおちてくる、というよう
なことがね。
ちょっとそのまえに車が故障とか、時間がずれて
たら助かってるんですよね。
ところがそうはならんのですね。
早くも遅くもならずにその時間にそこを通って事
故に遭って死ぬ。
というように決まってるんです。
ですから私たちが、こうして人間に生まれてきた
ということは、畜生に生まれずに人間に生まれて
きたんだということです。
畜生に比べたら有り難いですよね。
兎に角、仏教は下と比べて有り難がらないといか
んわけですね。
上を見れば限が無いですからね。
兎に角下に比べたら、地獄でなく餓鬼でなく畜生
でなく修羅でなく、人間に生まれてきてるんです
から、これはもう有り難いことですね。
人間に生まれてこなければ、たとえ仏法の世界に
生まれてきても、仏の法を聞く能力が無い。
馬の耳に念仏といいますが、能力が無い。
だから救われるには、少なくとも人間に生まれな
いことには、人間になってもなかなか仏法には遭
えないんだから。
兎に角人間に生まれなければ、救われる可能性が
無いわけですが、今その人間に生まれてるんだと、
今已人身を受け難しと、こういうことなんです。
他の動物に生まれずに、地獄にも落ちずに餓鬼や
畜生にも修羅に落ちずに人間に生まれてきたとい
うその可能性ですね。
それを例えたんですね、その例えは、お釈迦様が
ガンジス河の辺りを弟子を連れて歩いていたんで
すね。
そのガンジス河というのは、大きな海のような河
ですね。
向こう岸が遥か彼方に見えるほど広い河です。
そして沙も海岸の砂のようなのがいっぱいある。
そこを通られたんですね。
そして沙を足ですくわれるのですね、すると足の
指の爪の上にわずかな砂が残りますね。
そして弟子たちに、私が今足で砂をすくって、砂
が足の五本の指の爪の上に乗ってる砂の量。
この砂の量と、ガンジス河の砂の量と、どちらが
多いと思うかと。
そしたら、それはもう例えにはなりませんと。
爪の上の砂はわずかなもので、ひと握りも無い。
ところがこのガンジス河の砂の量というのは、こ
れはもう測りきれない量ですと。
そうであろう。
今私がすくった五本の指の爪の上に乗った砂の数
が、人間の数だとすれば、人間以外の生類の数と
いうのは、このガンジス河の砂の量に匹敵するん
だと。
だから人間に生まれるとうことが、如何に少ない
ということになるのかということを認識しなけれ
ばいけない。
と、こういうお経があります。
「仏法に遭えるチャンス」
ガンジスの砂というのは、日本の河の砂と違って、パウダーのように細かい砂です。
爪上の砂(そうじょうのすな)というお経があるのです。
それから、人間に生まれても、ところがなかなか仏教に遭えない。
遭えるチャンスですね。
これも有名な例えがございまして。
海があって、この地球の海というのは、何処に海岸があって、海の向こうに何処の国があってと、海に際がありますね。
海にも限度がありますね。
ところが、これは例えですから何処まで行っても、何処まで行っても辺りが無いという例えなんです。
そんな海は有り得ないんですけど、例えですから何処までも海が続いているんです。岸部が無い。
そしてその海に、一メートル四方くらいの板が一枚浮いてると仮定して。
その板には一つ、節穴が開いてると仮定して。
作品名:和尚さんの法話 『人身受け難し今已受く仏法聞き難し今已聞く』 作家名:みわ