和尚さんの法話 『 廻向 』
ちょうどお母さんが一人で留守番がてらということか、お勤めをしてたそうです。神さんの前でね。
自分の家やし、お母さんにも迷惑かけたらいかんし邪魔をしないように終わるまで待ってようと思って、上がっていってお母さんの拝んでいる後ろで座って待ってたら。
突然お母さんが、こっちを向いて、そして男の声になってしまって
「おばちゃん、おばちゃん」と言いだしたんです。
それでお母さんのことは日頃からよく知ってるから、また誰か霊が降りたんだなと思ったんですね。
あんたは誰ですかと聞いたら、「僕、平八郎」と言ったんです。
本家の精霊は皆、お経を貰うけど僕だけ貰って無いんだと。
子供はそうなってくるのでしょうね。
小さい子のために、何回忌、何回忌と勤めるということは、まずは無いと。
大人の精霊のときに一緒に付けてあげるというのが精いっぱいですね。
子供というのは罪が無いでしょうと和尚さんが言われたそうで。
良いこともあまりしてないけれども悪いこともそんなにしてませんがなと。
皆さんは、子供というのは罪が無いと思うでしょうが、地獄へは行かないかもしれませんけれども、そうそう良い所へは行けませんよと。
地獄へいくような悪いことはしてないけれども、良いこともしていない。
そこへもって、あの世でも修行が出来ない。年齢が低いと修行をする能力が無い。
後の弔いもいい加減になっている。
だから子供は困るんだと。
賽の河原地蔵和讃のようになってくるんですね。
まだ親が生きてると、勤めることはしないけど、忘れないですよね。
子供が可哀相に可哀相にと思うて、親は忘れないけれども、代が替わってきたらもう忘れ去られてしまいますね。
だから子供は困るんですよ、あの世へ行ったら。
だからお地蔵さんがお世話をせんならんということになってくるわけです。
それでその子は、「僕はお経を貰ってないので、いい所へ行きたいけどなかなか行けないんだ」というのです。
いい所へ行きたいけど、お経を貰ってないのでなかなか行けないと。
これは本当の話しですからね。
それで何とかして、いい所へ行きたい行きたいと思って、先日からおばちゃんに付いていたら、和尚さんに気が付いて貰えて、お経を勤めて貰えたので、僕はいい所へ生まれることが出来ましたと。
今日は一言お礼を言いに来ましたと。こう言ったというのです。
みなさんは、生まれるというと、この世だけだと思っていたらこれは大きな間違いなんですよ。
死んであの世へ行って、またこの世へ生まれて、死んであの世へ行ってまたこの世へと。
我々はこの世へ来た時だけ生まれた生まれたと思っているけど、あの世にも生まれる所は沢山あるんですよ。
地獄へ行ったら地獄へ生まれたんですよ。
極楽へ行ったら極楽へ生まれたんです。
餓鬼道へ行ったら餓鬼道へ生まれたんです。
この世で死んでるけど、あの世の餓鬼道へ生まれた。
だからあの世にも生まれる世界が沢山あるんです。
だからその子は、いい所へ生まれることが出来たと、こう言ってるんです。
この話を、わざわざ和尚さんに報告をしにきてくれたということです。
その奥さんは、私は親交の深いお母さんに育てられましたので、信仰という面では子供のころからなんとなく思ってますが、然しながら半信半疑でしたというのですね。
もうひとつというところで、信じ切っていなかったんですね。
只なんとなくする、しないと気が済まないからするというふうでしたんですね。
然し本気であの世があるのかと言われたら、それはありますという自信に溢れた応えは出来なかったんですね。
ところが、今回このことがありましたので、私は腹の底からあの世はあるんだなと思いますと。
お母さんがいつもそう言っていた。お母さんにはその体験があるからね。
ところが私は、半信半疑でしたけれども、平八郎でなければ言えないことを言ったからですと。
お母さんはその平八郎のことを知らないのですから。
平八郎がどうの、お経を貰ってあるのかどうのという話は、これからというところでしょ。
そういうことがあって初めて会ってるんですから。
だからこれはもう信じざるを得ない。
実家へ行くまえにお母さんにこういう話をしてあって、それから後に平八郎の霊がお母さんに降りて、僕は平八郎でと若しも言ったのでしたら、お母さんの先入観で平八郎だと言ってるんじゃないかと疑いますわね。
ところがお母さんは、平八郎がどうのということを全く知らないのですから。
だから疑う余地がない。平八郎の霊でなければ言えないことですと、こう言ったんです。
だからなるほど、霊魂はあるんだなということです。
疑う余地がないですよね。
それは今言う、廻向ということなんでねすよ。
お経を貰ってないということは、廻向されていないということですよ。
この場合は、お経の廻向ですね。
それをしてもらってないので、なかなかいい所へ行きたくても行けなかったんだということですよ。
世の中にはこういうことも単なる綺麗事で、先祖からの仕来たりでとか、自分の気休めでとか、親戚の付き合いでとか、その程度にしか考えてない人もあるわけですわね。
こういう法事ごとはね。
そうじゃなくて、あくまでも目的は、そりゃ七分の一ではあるけれども、自分は知らなくて百パーセントと思うてやってるからよけいに有り難いんですよね。
自分が七分の六貰おうと思うてやってたら多少はね、どうでしょうか功利的な気持ちではちょっと冒涜ですわね。
自分のために先祖の法事をするというのはね。
それは自然にそうなるんですよ、そんなことを思っていなくてもね。
だからそういう自分のことは忘れて、先祖のことだけを考えてしないといけませんね。
これは以前にお話しをしてるかもしれませんが。
或るお客さんが和尚さんを訪ねてきまして。
その人の後ろに立派な先祖が出てきて、その先祖の姿は立派なんだけれども、どう立派かといいますと、兜をかぶった武士が出てきてとか、お公家さんのような霊もあるし。
そう言う場合は、大抵はその家は何百年も続いてあるはずですね。先祖を辿っていけばね。
それで聞いてみると、平家とか源氏とか言ったそうです。
その末孫だといって私の親は自慢してましたと。
ところでその御先祖のお勤めはどうしてますかと聞きました。
きっと出来ていないと思って聞いたんですね。
それは出来ていませんと。
親の代まではよかったんだけれども、親が没落して私には兄が二人いますが、二人ともうだつが上がりませんで、その先祖どころではないんだと。
然し、お仏壇はあるんでしょと聞いたんですね。
仏壇はありますと。もう邪魔になるような大きい仏壇があると。
それをどうしてますのかと聞くと。
兄貴の家の戸棚へ入れてあると。
盆も正月も開けたことが無いし、年忌の法要もしたことがないと。
それで何年もきてるわけです。
それがじめっとした感じがしたそうです。
和尚さんはその家のことは知らんのだから、それでもそう見えるんですね。
作品名:和尚さんの法話 『 廻向 』 作家名:みわ