和尚さんの法話 『 廻向 』
お葬式でもそうですよ。そのところが、死者の廻向になっているわけなんですよ。
そういう意味が、廻向でありますから、ただ単にお経を読んで、お経を読むことが廻向だと思うたら間違いで、その功徳を廻らせないと廻向にはならんのです。
だから廻向というものは、お経を読んだだけではなくて、物質的にも人様に席を譲ってあげたとしますと、小さいことでも、その人が楽をして自分が立っているわけだから、犠牲を払ったということですね、それでも功徳ですよ。
只なんとなくした小さい親切でも自分の功徳なんですよ。
ところが、たまたま今日はお父さんの命日だったとしますと、このささやかな功徳でもお父さんの冥福の為に、冥途の幸福ですね、そういうふうな気持ちですれば、隣へ物を持っていってあげて、今日は父の命日で、ちょっとほんのお供養でございますけれどもと、それもお父さんの功徳になっているわけです。
但しこれは、死者に送る功徳は、向こうへは七分の一しか届かないんです。
皆さんが法事をなさると、その法事をするときに、兎に角その法事に使ったお金は、もう戻ってこないお金ですよ。
お父さんのために使ったお金ですからその功徳は全部お父さんに行くべきなんですが、その七分の一行くとお経に説いてあるんですよ。
七分の一しか行かない。
残りの七分の六は、法事を勤めた人が受けるんだと。施主ですね。
勤めた人が受ける功徳のほうが大きい。勤められた精霊よりも、勤めた施主のほうが功徳ははるかに大きい、とそういうことになってるんです。
だから法事は、先祖のためというよりも、自分のためなんですね。
こういう言葉があるのですが、「七分全得」と。
死んでから子孫に法事をしてもらったって、七分の一しかあの世へ功徳が届かない。
だから自分が生きているうちに自分の法事をしておいたら、七分全得になるということです。
だから法事でもそうですし、葬式でもそうですが、昔は本気で葬式をして、火葬場まで、昔は行列をしたんですね。
それを本当にやったんですね。
その記録もありますしね。明治の頃もあったようです。
今はそんなことは許されないでしょうね。
法事だったら出来るかもね。
死んであの世へいったら、その功徳を全部受けるわけですよ。
そういうことを真面目に行った人がいくらでもあるんです。
その代わりその費用は全部自分でしないといけませんね。
細かく言うとなんですが、お金を出さないと功徳にならんのですね。
どうしてもそうなってくるんですね。
お金というのは生活には大変なものですから、それを失くするのですから、失くするというのは落としたとか盗られたとかいうのは別ですけれども、自分以外の人の為にと思うてすれば、それは功徳になるのです。
それはどうしてもお金とか物とか、こう成らざるを得ないですね。
やむを得ないですからね、この娑婆の世界は。
和尚さんの体験では、精霊が出てきたときに、その精霊がしょんぼりと、うとうしく出てくる場合は、廻向をされていないそうです。
所謂お経を貰っていない。ということが多いそうです。
和尚さんの在所の或る方が、檀家さんじゃないので、その家のことはそのとき初めて分かったことなんですが。
或ることを相談をしに、和尚さんを訪ねてきたそうです。
そしてお話しをしてたら、その奥さんの側に、男の子が出てきたんですね。
その姿とか様子で、だいたい何時頃の人という見当がつくんですね。
大正とか昭和の初めとか明治の終わりとか、だいたいと見当がつくんですね。
その子供は、明治の終わりか大正の初め頃かなというくらいだったそうです。
年齢は七歳か八歳くらい。
霊魂は、心霊学の解説をする人のなかに、あの世へ行って、年数がたてば歳をとると。
五歳で死んで百年たてば、百五歳になってると。
この世と同じだというふうなことを言う人があるそうですが、これは違うと和尚さんがおっしゃいます。
あの世へ行けば、もう歳をとりません。霊魂は歳をとらない。
肉体と違いますからね。
だから三歳で死んで、百年たってもやはりあの世では三歳の状態なんです。
「お経を貰いたい霊」
だからその人は、おそらく芽時の終わりか大正のかかりに死んでいると。
七歳か八歳で死んでるんじゃないかと。
向こうへいって歳をとるんだったら百歳になってなければなりませんが、ところがそうじゃない。
どうもこの男の子は、しょんぼり出てるからお経を貰ってないように思うと。こう言ったんですね。
こういうご先祖がございませんかと聞いたんですね。
そうしましたら、その奥さんはその家は嫁ぎ先なので古いことはよく知りませんので、主人に聞いてみますと。
いうことで、またその主人と二人で来て、それはどうも私の父の兄弟じゃないかと思うと。
私の父は、男が三人兄弟で、父は一番下ですと。父はもう歳で死んでますと。
一番上の伯父さんは、本家を継いでるけれども、その伯父さんも死んだ。
その真ん中の人が小さいときに死んだというようなことをおぼろに記憶はあるけれども、しかとしたことは本家へ行って聞けばどうかということは分かると思いますが、それがどうかしましたのかと、こうわけですね。
それで和尚さんは、どうもこの精霊はお経を貰ってないように思う、お経を欲しがっているように思うと。
小さい時分に死んだら、それは本家分家があれば、当然本家になりますよね、施主は。
それだったら本家が責任者だから、本家さんが勤めるように言ってあげたらどうですかと。
そしてとりあえず、本家へお勤めをしたのかどうか調べに行ったんですね。
そして聞いたら、歳も七歳か八歳で、名前が平八郎という名前でした。
そして死んだのが明治の初め頃でした。
そしてお勤めをしてあげるようにと申したと。
和尚さんにそう言われたので、そう言いましたと。
だけれども、本家の奥さんが機嫌が悪かって、あの様子だったらお勤めはしないだろうと思うと。
家のことまで嫌ん事を言いに来るなと言われたそうです。
それで勤めないように思うと、こう言うて来たので、それだったら貴方がたで本家の寺へ行って貴方がたで勤めてあげなさいと。
貴方がたに頼ってきてるんだからと。
そしてこの七分の六の話しをしたんですね。
勤めてあげたら七分の六の功徳があるんですと。
けっして損と違うんですと。
その七分の六が何時芽を吹くか、それは分からないけどお経にそう説いてますから、それはもう本当なんですと。
地蔵菩薩本願経というお経に説いてあります。
そういうことで、ではそうしますということで、本家の寺へ行って勤めたんです。
そして、後で報告をしてくれたそうですが、その奥さんの実家のお母さん。
そのお母さんが、信仰が深いのです。
信仰が深くて、拝んでいると霊が降りてくるそうです。
恐山のイタコのような人ですが、拝み屋さんじゃないんですよ。
拝み屋さんじゃないんだけれども行がそこまで来てる人なんですね。
心掛けのいい人でもあるし。
そして何カ月かたちまして、ちょっと里に用事が出来たので帰ったんですね。
作品名:和尚さんの法話 『 廻向 』 作家名:みわ