和尚さんの法話 『 廻向 』
「廻向とは」
皆さん、この廻向という言葉をよくご存じだと思います。
これはよく皆さんは、寺の和尚さんがお経を読む。
そのお経を読むことが廻向だと。こういうふうにお考えだろうと思うのです。
それはこの廻向というのは、お経を読むことが廻向じゃなくて、そのお経を読んだその功徳を、この字は廻らし向かわすと書いてありますように、廻し向かわすということが廻向なんです。
単にお経を読んでることを、これは読経です。
ところが、誰々の為に、ということでお経を読みましたら、それは読みましたら必ず功徳がありますからね。
お経はお釈迦様が、我々を救う為になさった説法ですよね。
その説法が、文字になって今日に伝えられているのがお経ですから。
そのお説法というのは、我々衆生を救う為の真理を説かれたわけですね。
ですからその真理を説かれているお経を読むということは、例えば、南無仏。南無法。南無僧とありますが、この南無というのは、帰命とか帰依とかこういう意味の言葉ですね。
帰命というと、兎に角、阿弥陀様なら阿弥陀様、観音様なら観音様、お地蔵様ならお地蔵様に、もう何もかも投げ出して仕えて行くと、こういう心境ですね。
帰依するということは、兎に角もう命も要らんという心境ですね。
仏法僧の、仏さんがお説きになった法によって僧が修行をしていく。
そして自分より下の者を導いていくのが僧。
今の僧は、形だけは僧ですが、お地蔵様とか観音様とか、そういう方が僧なんですよ。
他にも舎利弗とか目連とか、そういう方が僧なんです。
この仏法僧に帰依する。仏門に入るときは、これは必ず受けることになっている。
仏教に帰依するということは、仏教信者になるということで、この三帰。
三つですからこれを三帰といいます。
これに戒律があって、三帰戒といいます。
お葬式のとき、受戒を受けてる人はいいのですが、受けて無い人の場合はこの三帰戒を必ずするそうです。
宗派にもよりますが、浄土宗はそうですね。
儀式の中に入るんだけども、始まる一番最初に三帰戒をするそうです。
そして一旦座って、そして改めてお葬式のお経をする。
だから受けて無い人の場合はこの三帰戒をいうのが余分になるわけですね。
受けてある人だったら、それを省いてお経が始まる。
受けて無い人には、引導を渡すような格好でこの三帰戒というのを授ける。
真宗はしないようですね。そして廻向も意味がだいぶ違うようです。
真宗がいう廻向というものと、他の宗派の廻向の意味が違うそうです。
「願従今身 尽未来際 南無帰依仏 両足尊」
(願わくは、今身従(より)未来際を尽くすなり。南無帰依仏 両足尊)
両足尊というのは、二本足の、動物というのは申し訳ないのですが、要するに人間ですが。
二つの足で以って立つ中で、一番尊い人。とこういう意味ですね。
南無も帰依も一緒なんです。これは中国が南無という言葉を訳したんです、帰依とか帰命とかね。
だからこれは一つでもいいんですけども、南無帰依仏。南無帰依法。南無帰依僧。
と南無帰依と重ねて言うならわしになってるんですね。
未来際を尽くすなり。と、未来というのは尽くすことは無いんですよね。
時間というのは永遠なんですから。未来の際というものは無いんです。
言葉としては際と言うけれども、未来も無いし、過去も無いんですよ。
兎に角、無間の過去から無間の未来へ向かってるんです。
ところがその例え未来が尽きることが有るのならば尽きるときを待てということです。
そして続きが「南無法帰依法 離欲尊」
法は我々はその仏法という法を本当に守って実行していくのはなかなか難しいことですけれども、すれば必ずその欲は離れていくんですね。
煩悩が離れてくる。
煩悩が離れなければ救われないのですからね聖道門は。
信心は別にして、聖道門で行けば煩悩は如何にして断つかというのが、昔からの僧侶の悩なんですよね。どうしたら煩悩がとれるか。
法を真っ当に信じて行っていけば、法は煩悩を離してくれる一番尊いものだと。
「南無帰依僧衆中尊」
衆生の中で一番尊い人ということですね。お地蔵さんとか観音さんとかと思って頂かないとね。
三界を解脱したような方です。
そして、「願従今身 尽未来際 南無帰依仏境 南無帰依法境 南無帰依僧境」これを三回称える。
帰依致しましたということで、終わったということです。
衆生に替わって仏様に告げるわけですね。
これはもう相手は死んでるんですから、形式になっているんですね、本当は生きてるときにしたほうがいいそうです。
臨終のときの枕経もそうですね、形式になってますね。
これも本当は生きてるときにしないといけないことが、死んでからやってる。
皆、形式になってますね。
でも形式は形式で、無駄ではないんですから。
こういうことで、受戒をしてない人には葬式のときにするんですね。
和尚さんは、枕経のときにするそうです。
そういうことで廻向の話しですね。廻向ということは、読経だと思うけれども読経ということは、功徳を廻らせねば廻向にはならんだと、こういうことで。
廻向ということは、お経を読むことだけじゃなくて、兎に角功徳を積んだ、その功徳を、只そのままだと自分の功徳になるんですよ。
有形無形、兎に角自分以外の人の為になにか尽くしますと、それは必ず功徳になるんです。
人の為に尽くすということは、それだけ犠牲を払ってるんだから。
犠牲を払ったら必ず、精神的な犠牲であろうが、身体的な犠牲であろうが、財的な犠牲あろうが、兎に角犠牲を払ったら必ず功徳が戻ってくる、ということを信じて頂きたい。
これは仏教の有り難いところですね。尊じゃないんですよ。
お金や物は出たけれども功徳は戻ってきてる。
ところがその廻向という場合は、その功徳を自分のものにしない。
例えば、ここに亡くなった人があるとして、この人があの世でちょっとでもいい所へ行ってもらうために、この人はこの世へ戻ってきて功徳を積めませんから、自分が代わって功徳を積んで、この人のために功徳をあげる。
こういうのが廻向です。
だからお経が、自分のために読んでるんじゃなくて、稽古のために読むとかね、そういうんじゃなくて、誰か亡くなった人の為に読むという場合には、この功徳が亡くなった人に行くわけです。
向こうへ移していくのを廻向というわけです。
だからお経だけではないということなんですよ。
皆さんがお家で法事をなさいますね。法事をなさったときに、大きな丁寧な法事にしようと思ったら、お供養というのを付けますね。
お膳をお付けになったり、物を貰ってもらったりしますね。
あれは労いじゃないんですよ。
時間を割いて遠いところを来て頂いて、お気の毒さんでございます、ほんのささやかでございます、というような労いの意味でしているわけじゃないんです。
供養といいますね、それは廻向なんですよ。
兎に角、おあがり下さい、お持ち帰り下さいと、功徳を集めているわけです。
その功徳を集めて、今日の誰々の何回忌の為にと、いうことなんですよ。
皆さん、この廻向という言葉をよくご存じだと思います。
これはよく皆さんは、寺の和尚さんがお経を読む。
そのお経を読むことが廻向だと。こういうふうにお考えだろうと思うのです。
それはこの廻向というのは、お経を読むことが廻向じゃなくて、そのお経を読んだその功徳を、この字は廻らし向かわすと書いてありますように、廻し向かわすということが廻向なんです。
単にお経を読んでることを、これは読経です。
ところが、誰々の為に、ということでお経を読みましたら、それは読みましたら必ず功徳がありますからね。
お経はお釈迦様が、我々を救う為になさった説法ですよね。
その説法が、文字になって今日に伝えられているのがお経ですから。
そのお説法というのは、我々衆生を救う為の真理を説かれたわけですね。
ですからその真理を説かれているお経を読むということは、例えば、南無仏。南無法。南無僧とありますが、この南無というのは、帰命とか帰依とかこういう意味の言葉ですね。
帰命というと、兎に角、阿弥陀様なら阿弥陀様、観音様なら観音様、お地蔵様ならお地蔵様に、もう何もかも投げ出して仕えて行くと、こういう心境ですね。
帰依するということは、兎に角もう命も要らんという心境ですね。
仏法僧の、仏さんがお説きになった法によって僧が修行をしていく。
そして自分より下の者を導いていくのが僧。
今の僧は、形だけは僧ですが、お地蔵様とか観音様とか、そういう方が僧なんですよ。
他にも舎利弗とか目連とか、そういう方が僧なんです。
この仏法僧に帰依する。仏門に入るときは、これは必ず受けることになっている。
仏教に帰依するということは、仏教信者になるということで、この三帰。
三つですからこれを三帰といいます。
これに戒律があって、三帰戒といいます。
お葬式のとき、受戒を受けてる人はいいのですが、受けて無い人の場合はこの三帰戒を必ずするそうです。
宗派にもよりますが、浄土宗はそうですね。
儀式の中に入るんだけども、始まる一番最初に三帰戒をするそうです。
そして一旦座って、そして改めてお葬式のお経をする。
だから受けて無い人の場合はこの三帰戒をいうのが余分になるわけですね。
受けてある人だったら、それを省いてお経が始まる。
受けて無い人には、引導を渡すような格好でこの三帰戒というのを授ける。
真宗はしないようですね。そして廻向も意味がだいぶ違うようです。
真宗がいう廻向というものと、他の宗派の廻向の意味が違うそうです。
「願従今身 尽未来際 南無帰依仏 両足尊」
(願わくは、今身従(より)未来際を尽くすなり。南無帰依仏 両足尊)
両足尊というのは、二本足の、動物というのは申し訳ないのですが、要するに人間ですが。
二つの足で以って立つ中で、一番尊い人。とこういう意味ですね。
南無も帰依も一緒なんです。これは中国が南無という言葉を訳したんです、帰依とか帰命とかね。
だからこれは一つでもいいんですけども、南無帰依仏。南無帰依法。南無帰依僧。
と南無帰依と重ねて言うならわしになってるんですね。
未来際を尽くすなり。と、未来というのは尽くすことは無いんですよね。
時間というのは永遠なんですから。未来の際というものは無いんです。
言葉としては際と言うけれども、未来も無いし、過去も無いんですよ。
兎に角、無間の過去から無間の未来へ向かってるんです。
ところがその例え未来が尽きることが有るのならば尽きるときを待てということです。
そして続きが「南無法帰依法 離欲尊」
法は我々はその仏法という法を本当に守って実行していくのはなかなか難しいことですけれども、すれば必ずその欲は離れていくんですね。
煩悩が離れてくる。
煩悩が離れなければ救われないのですからね聖道門は。
信心は別にして、聖道門で行けば煩悩は如何にして断つかというのが、昔からの僧侶の悩なんですよね。どうしたら煩悩がとれるか。
法を真っ当に信じて行っていけば、法は煩悩を離してくれる一番尊いものだと。
「南無帰依僧衆中尊」
衆生の中で一番尊い人ということですね。お地蔵さんとか観音さんとかと思って頂かないとね。
三界を解脱したような方です。
そして、「願従今身 尽未来際 南無帰依仏境 南無帰依法境 南無帰依僧境」これを三回称える。
帰依致しましたということで、終わったということです。
衆生に替わって仏様に告げるわけですね。
これはもう相手は死んでるんですから、形式になっているんですね、本当は生きてるときにしたほうがいいそうです。
臨終のときの枕経もそうですね、形式になってますね。
これも本当は生きてるときにしないといけないことが、死んでからやってる。
皆、形式になってますね。
でも形式は形式で、無駄ではないんですから。
こういうことで、受戒をしてない人には葬式のときにするんですね。
和尚さんは、枕経のときにするそうです。
そういうことで廻向の話しですね。廻向ということは、読経だと思うけれども読経ということは、功徳を廻らせねば廻向にはならんだと、こういうことで。
廻向ということは、お経を読むことだけじゃなくて、兎に角功徳を積んだ、その功徳を、只そのままだと自分の功徳になるんですよ。
有形無形、兎に角自分以外の人の為になにか尽くしますと、それは必ず功徳になるんです。
人の為に尽くすということは、それだけ犠牲を払ってるんだから。
犠牲を払ったら必ず、精神的な犠牲であろうが、身体的な犠牲であろうが、財的な犠牲あろうが、兎に角犠牲を払ったら必ず功徳が戻ってくる、ということを信じて頂きたい。
これは仏教の有り難いところですね。尊じゃないんですよ。
お金や物は出たけれども功徳は戻ってきてる。
ところがその廻向という場合は、その功徳を自分のものにしない。
例えば、ここに亡くなった人があるとして、この人があの世でちょっとでもいい所へ行ってもらうために、この人はこの世へ戻ってきて功徳を積めませんから、自分が代わって功徳を積んで、この人のために功徳をあげる。
こういうのが廻向です。
だからお経が、自分のために読んでるんじゃなくて、稽古のために読むとかね、そういうんじゃなくて、誰か亡くなった人の為に読むという場合には、この功徳が亡くなった人に行くわけです。
向こうへ移していくのを廻向というわけです。
だからお経だけではないということなんですよ。
皆さんがお家で法事をなさいますね。法事をなさったときに、大きな丁寧な法事にしようと思ったら、お供養というのを付けますね。
お膳をお付けになったり、物を貰ってもらったりしますね。
あれは労いじゃないんですよ。
時間を割いて遠いところを来て頂いて、お気の毒さんでございます、ほんのささやかでございます、というような労いの意味でしているわけじゃないんです。
供養といいますね、それは廻向なんですよ。
兎に角、おあがり下さい、お持ち帰り下さいと、功徳を集めているわけです。
その功徳を集めて、今日の誰々の何回忌の為にと、いうことなんですよ。
作品名:和尚さんの法話 『 廻向 』 作家名:みわ