紫陽花
A子は悪戯ぽい目つきで手を差し出した。
「フフッ~大丈夫、退職届ちょうだい。」
躊躇していると、媚びるような目つきになった。
「子供じゃないのよ、ねえ~ちょうだい!」
催促する目がいやに色っぽい、A子の豹変ぶりに気押された。
「わ、分かった。」
退職届を取り出すと、A子はヒョイとつまんで立ち上がった。
「コレ、あとで送りますね。お世話になりました。バイバ~イ!」
ニッコリ微笑んでウインクすると、スカートを翻して颯爽と出て行った。唖然として見送るK。フレアスカートをヒラヒラさせスキップしながら軽やかに遠のいていくA子。
デジャビュ(既視感)というのだろうか、これと同じシーンをどこかで経験したように思った。
三
A子のいない庁舎は灯りの消えた町のようであった。
活気がなく虚ろで冷たい風が吹き抜けていく。短かったがA子の存在の大きさを思いしらされた。それはKだけでなく、机を並べた土木課の連中も同じだった。四六時中接していた彼らの方が喪失感が大きかったと言える。
「超淋し~い」、「モチベーション下がる~」、「誰が退職させたんだよ」、冗談めかした愚痴が聞こえた。
それにしても・・とKは思った。A子の言う時給の良いバイトは何だろう。若いから何とかなると言っていた。最後に見せた色っぽさを考えると夜のお仕事、ホステスかも知れない。清楚で愛嬌のある彼女は親父好みだし、看護師志望でしっかりしてるから酔客も上手にあしらえるだろう。どんな所で働いているのか気になったが、広い大阪のこと、どんな店なのか見当もつかなかった。
猛暑の夏が終わり蝉時雨の銀杏並木が黄金に色づく頃であった。突然A子から電話が入った。
「お仕事中お邪魔します。覚えてらっしゃいます?以前お世話になったA子です。」
聞き覚えのある甘い声である。年甲斐もなくKの気持ちがときめいた。
「A子さん?・・覚えていますよ!忘れるものですか。土木課の連中は淋しい、淋しいって仕事が手につかなくて困ってますよ。」
懐かしい声が続いた。
「その節はご迷惑をおかけしました。今、昼間は予備校に通って夜は北新地でバイトしています。コンパニオンというか、ホステスというか。」
「そうじゃないかと思ってたんだ。キミは小父さん好みだからホステスさんが向いているんじゃないかと・・しかし勉強と仕事と大変だろ?」
屈託なく応えた。
「週三日のバイトですから・・時間が来たら帰れるし、変なノルマもないし、お客さんの横でニコニコしてればいい気楽な仕事です。・・でも、この頃暇過ぎてバイトなのに営業させられてるの、ゴメンナサイね。新地の○○っていうクラブです。サホっていう源氏名で働いてます。よろしかったら寄って下さいね。待ってま~す。」
営業と分かっているのに気持ちが浮かれた。
「行く、行く、絶対行くよ!」
電話を置いた後もボンヤリ会話を反芻していた。A子の声を聞くとなぜか嬉しくなる、懐かしくなる。誰かの声に似ている。誰だろう?・・寒々とした部屋に明かりをともしたような気持ちになるのである。
その週末、Kは待ちかねたように北新地に出かけた。
北新地は接待で訪れており○○はすぐに分かった。黒服に案内されて店に入ると、華やかに着飾った女たちがにこやかに出迎えた。A子の姿は見当たらず、ソファに腰を降ろすと黒服にサホの名を告げた。
「承知しました。しばらくお待ち下さい。」
丁重なもの言いで黒服が下がると、しばらくして金髪のド派手女が現れた。
「ご指名ありがとうございます。サホで~す。よろしく。」
エ~ッ?!腰を抜かしそうになった。金髪キノコヘヤー、縁取りしたタヌキ目、スケスケのミニスカート。黒髪で清楚なA子ではない。恐る恐る尋ねた。
「キミってA子?!」
ピッタリ寄り添い可笑しそうに見つめた。
「そうよ、Kさんでしょ?」
Kは目を丸くして見つめた。分厚い付け睫毛を外すとA子かもしれない。小鼻と頬に面影がある。
「これ、カツラなの。」
甘い声は確かにA子である。思わずため息が出た。
「・・驚いたよ、心臓が飛び出そうだ。女の子は別人みたいになれるんだ。」
微笑みながら水割りを用意した。
「フフッ・・そうよ、女はいっぱい別人を持ってるの。・・まさか来ていただけると思っていなかった。乾杯!」
その日は月末の金曜で忙しく、A子は半時間足らずで他席に移動した。待ち望んだ再会だったが、金髪キノコヘヤーで感動は半減し、板についたホステスぶりに戸惑った。代わりに座った女はよく笑う子で興を失いそこそこに席を立った。店を出るとき慌ててA子が駆けつけスイマセンと頭を下げた。
「せっかくお呼びしたのにお相手できなくてゴメンナサイね。木曜だったら暇ですからお話し出来そうです。来週の木曜十時頃来ていただけません?・・私、相談に乗ってもらいたいことがあるんです。」
派手なネオンの下で手を振る金髪カツラのA子がどぎつい赤紫に変色した紫陽花に見えた。・・相談に乗ってもらいたいって何だろう?何か深刻な悩みを抱えているように思えた。
翌週の木曜日、散々迷った末、Kは十時きっかり○○に入った。
出迎えの女の子も少なく店内の客もチラホラだった。目敏くA子が駆け寄ってきた。
「いらっしゃい!絶対Kさんが来てくれると思って、役所時代のA子でお迎えしました。どうぞ・・」
黒髪ショートにグレーのミニスカスーツ。清楚で可愛いA子が色っぽくなった感じである。奥のコーナーに腰掛けるとピッタリ寄り添ってくれた。彼女が太ももを寄せて密着してくれるなんて夢みたいである。ブラウスの胸元から形良く張った乳房が覗けそうである。喋らなくてもイイ、側にいるだけでイイ、このままピッタリ寄り添っていたい。気持ちが和み幸せな気分である。二人は水割りのグラスを合わせた。
「乾杯!・・今夜はゆっくりお話しできそうね。嬉しいわ。」
うなじから頬、鼻筋から唇、横顔のラインが完璧である。Kはうなじに手をやった。
「ショートカットが似合うね。京人形みたいだ。」
触られるままA子は小さく頷いた。
「ピンポ~ン、母は京都出身なの。」
「やっぱり!」
人形のような横顔に見惚れていた。見ているだけで満足だった。男の欲望と無縁だった。しかし、A子の表情が冴えない。
「何か心配事でもあるの?・・相談ってなんだい?」
「お店辞めようと思ってるの、化粧や衣装で出費がかさむし、年明けから入試が始まる。」
入試まで二ヶ月余り、かなり焦っているようだ。
「辞めてやっていけるのかい?」
「少しは蓄えがあるし、受験に専念するからオカネはいらない。・・でも」
A子の美しい眉が寄った。
「・・あの家じゃ勉強できないの。家を出たい。入試が終わったら出ようと思ってたけど今すぐ出たい。・・だから助けて欲しいの。」
「キミを助けるのはやぶさかじゃないよ・・今すぐ出たいって何があったんだい?お母さんはどうするんだい?」
泣き出しそうになった。