紫陽花
「今年こそ命日に墓参りせなあかん、仏さんにお礼言わなあかん。うちは病気やからあの子に行ってもろうた。それが嵐で田舎の島から出られんようになって・・ほんまに運のない子で・・何もかも裏目にでよる。」
額を畳に擦りつけて泣き出した。
「・・あの子が、あの子が悪いんやない。墓参りに行かせた私が悪いんです。・・クビにせんといてやって下さい。お願いします、お願いです。」
Kは「今どきどんな離島でも電話はある、連絡くらいできるはずだ」と思ったが、嗚咽しながら懇願する母親に聞くことが出来なかった。立ち上がりながら伝えた。
「嵐で帰って来られんのなら仕方ない、もう少し待ってみましょう。」
二
翌日早々A子から電話が入り、応対したKの声が弾んだ。
「良かった!良かった!」
明るい声音にA子は相手を間違えたかと思った。
「・・係長さんですよね?・・Kさんですね?・・昨日家の方に来ていただいたA子です。無断で休んで申し訳ありません。迷惑をおかけしました。今日で辞めさせていただきます。」
エーッ!感情を露わにしないKがのけ反った。
「や、辞めるって?!・・島にいるんだろ?・嵐風で戻れないのだろ!」
何のこと?A子は考えた。・・島にいる?嵐で戻れない?・・母がまた勝手なことを言ったんだ。ため息混じりに繰り返した。
「今日で辞めさせていただきます。」
いつもの愛嬌はなく毅然としたもの言いである。Kの声が泳いだ。
「や、辞める?・・お母さんと相談したの?・・ボクはクビにしないでくれって頼まれてるんだよ。」
A子は憮然とした。
「島とか嵐とか、母の作り話よ。あの人はフィクションで生きているんだから。」
あの人というもの言いにKは怒った。
「お母さんをそんな風にいうものではありません!」
毅然として諭した。
「お母さんはキミのことを心配しておられます。ボクは退職を認めるわけにはいかない。欠勤の理由はお母さんから聞きました。今度はキミから聞かなければならない。進退に関わることは電話で済ますことができません。きちんと退職届を書いてもらわなければならない。」
「よろしいか、辞めるのなら、キチンと事情を説明し退職届を提出しなければならない。それが世の中の常識です。いいですか、近日中に出頭しなさい、これは命令です。」
A子は新卒ホヤホヤである。Kの上司然とした強いもの言いに圧倒された。
「分かりました。近々出頭します。」
翌々日の昼過ぎ、A子が爽やかなワンピースで現れた。
水色のフレアスカートをヒラヒラさせて大輪の紫陽花が咲いたようである。むさ苦しい室内がパーッと明るくなった。Kの所に来るとペコンと頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました。申し訳ありません。退職届をもらいに来ました。」
髪型がショートヘヤーで日焼けしている。どこかでリゾートしてきたようである。神妙な態度と裏腹に、気持ちも態度も明るく弾んでいる。彼氏でも出来たのだろうか。つられてKも相好を崩した。
「マア、事情を聞かせてもらおうか。」
彼女を面談室に案内した。紫陽花の涼やかさが漂った。着席するといつもの慇懃さで尋ねた。
「突然欠勤して驚いている。男ばかりの職場で何か不都合なことでもあったんじゃないかと思って・・イヤがらせされたとか、セクハラされたとか、今後のために聞かせて欲しい。」
A子は明るく遮った。
「そ、そんなこと!みんなイイ人で親切にしていただきました。毎日楽しくお仕事してました。・・でも」
「でも?」
Kは顔を覗いた。A子が真っ直ぐ見つめた。
「臨時職員は正職員になれないことがハッキリ分かったんです。団塊の世代の方が一杯おられて暇そうにしておられる。私のお仕事だって毎日無理矢理作るから、あっちの補助こっちの手伝い、スキルアップにならないんです。若いときにこんなことしてちゃダメだと思って・・時間の無駄だし、税金の無駄です。だから辞めることにしたんです。」
痛いところを突かれて、人事係長のKはうなだれた。市は人件費のかさむ中高年を一杯抱えており、彼らのために無理して仕事とポストを作ってきた。そのあおりでここ二〇年、新規採用を抑えている。A子は政府の緊急事業で採用したのであって市が必要だったわけではない。民間は非正規社員に正規採用のチャンスはあるが、T市の場合はそれが絶望的である。
顔を上げて尋ねた。
「お母さんと相談したの?」
「母は旧い考えで役所は潰れないから辛抱しなさい、正職員になれなくてもイイ人が見つかるもしれないって言うんです。でも、私は女だって一生働くべきだと思ってます。好きな人が現れれば結婚してもいいけど、母みたいに結婚が最終就職だって言うのはおかしいと思うんです。」
一見お嬢さんタイプだが、苦労しているだけに自分の生き方をよく考えている。彼女の健気な言葉に感心した。時代の変化に応じて逞しく生きようとしている。
「仕事を持って男に頼らず生きるのは素晴らしいことだ。でも女性が一生働き続けるのは厳しいことなんだ。もっと柔軟に考えてもイイんじゃないか?」
真っ直ぐだった視線が心なしうつむいた。父に死なれ母に頼れず、旅行や合コンで浮かれる友達を尻目に、バイトに追われた大学時代を思い出したのである。柔軟な生き方など選びようもなかった。
「・・オカネで苦労してきたから、大学を出たら稼ごうと思ってました。だから、内定を取り消されたときは凄いショックでした。景気に翻弄されない仕事はないだろうかと真剣に考えたんです。・・やっと見つけました、何だと思います?」
いつものA子に戻って明るく尋ねた。
「景気に左右されない、キミにピッタリの仕事?・・何だろう?」
お嫁さんが一番だと思ったが、それ以外の職業となると??Kは考えこんだ。
「保母さん?先生?・・もしかして看護師さん?」
嬉しそうに手を叩いた。
「ピンポ~ン!そのとおり、看護師さんよ。母がよく病院に行ったので子供の頃から憧れてたけど、お父さんが会社を経営していたから経営学部に入ったの。でも会社は景気に翻弄されるでしょ。看護師さんは慢性的に人手不足だし、資格さえ取れば一生働ける。それに患者さんに喜んでもらえるわ。」
Kの老婆心が出た。看護学校にまた入らなければならない、大丈夫だろうか?
「看護師さんはピッタリだと思う。でも看護学校に入って資格を取らないとダメだろう。もう一度学校へ行くつもり?」
自信ありげに頷いた。
「夏になったら予備校に通おうと思ってます。三科目入試だから自信あるの。公立は学費が安いし、学費を出してくれる病院もあるし、合格さえすれば何とかなるの。」
そこまで調べているのなら臨時職にとどめる理由はない。念のために尋ねてみた。
「予備校だってオカネがいるだろう。役所を辞めても大丈夫なんだね?」
嬉しそうに微笑んだ。
「少しくらい蓄えがあるし、それに若いから何とかなるの。フフッ~時給の良いバイトを決めちゃった!」
「時給の良いバイトってなんだい?・・美味しい話しは恐いよ。」