紫陽花
はじめに
大阪の読者は以前、新聞の地域版に次のような三行記事が載ったのをご存じだろうか。
「T市人事委員会は総務課係長Kを元部下の女性にしつこく交際を求めたセクハラ行為により懲戒処分にした。」
この手の公務員の不祥事は日常茶飯事で見向きもされないが、Kを知る人はこの記事に驚いた。Kは四十半ばの独身主義者?で、虚弱体質で加齢が進み、頭髪銀色、長身痩躯、活力乏しく、セクハラすると思えなかった。地元の旧家だが早死の家系で両親と妹を亡くし、家は自分で絶えると定めて陽炎(かげろう)のように生きている。そんな彼がなぜ女性に血道を上げたのか、元職員の女性はどんな人物なのか、知人である私は興味をもった。
女性は臨時職員として彼が面接・採用した新卒のA子であった。
彼女はリーマンショックで内定を取り消され、政府の緊急雇用事業で臨時職に応募してきた。黒のスーツに色白の瓜実顔が映え、今風女子の派手さのない地味な娘であった。質問に小首を傾げ下唇を噛んで考える仕草が愛らしかった。彼女の振るまいが誰かに似ていていると感じた。それがA子を気に留めた始まりである。
A子を土木課に配置したが、男ばかりの職場で大丈夫だろうかと気になった。こんなことは初めてだが、用もないのに課を訪れて彼女の様子を確かめたり、働きぶりを尋ねたりした。課長の言では愛想が良くてどんな仕事も嫌がらず出来の良い子をよこしてくれた、むさ苦しい野郎職場が明るくなったと大好評であった。廊下ですれ違うと必ず会釈してくれ、彼女が微笑むと心にポ~と明かりが点るようであった。恋心めいたものが芽生えたのかもしれない。
ところが六月半ば、土木課からA子が無断欠勤して連絡がつかない、早急に調べて欲しいと依頼があった。そう言えばここ二,三日彼女の顔を見ていない。勝手に休むような子ではないし、何か事件に巻き込まれたのかも知れない。もしかしてセクハラにあって出勤できないのかも知れない。早速、Kは履歴書で住所を確かめると、その日の夕方彼女の家を訪ねたのである。
一
A子は川向こうの隣市が氾濫原につくった市営団地に住んでいた。
そこは飛び地で市街地から離れており、JRの駅から半時間近くバスに揺られなければならなかった。団地前のバス停で降りると、辺りは一面イチジクであろうか、低く刈り込まれた濃緑の果樹畑が広がっていた。眼前に昭和の古びた集合住宅が並んでいる。それは畑に乗り上げたタンカー群を思わせた。どんより淀んだ空が広がり、濡れ雑巾のような雲があかね色に染まりつつある。一陣の生温い風が頬を掠めた。何かが匂う。土の匂い?イチジク?もっと香ばしい魚を焼くような匂い。
Kはメモを取り出して住所を確かめた。D棟の303号、集合住宅の四棟目であろう。壁面のアルファベッドを確認しながら進んで行くと、汚れたコンクリート壁に細かな亀裂が走り、窓枠や手すりのペンキが剥げ、狭いベランダに傷んだストーブや座卓、鉢植えやポリタンが転がっている。自転車置き場も屋根が破れ、埃をかぶった三輪車や自転車が横倒しで、使えそうな乗り物は数えるほどである。
D棟の庭先に湿気を含んで青々と紫陽花が群生していた。青や紫の雪洞(ぼんぼり)のような花に混じってガク紫陽花であろうか、可憐な白い花が浮かんでいた。大ぶりの花塊のなかで小さくいかにも健(けな)気である。どことなくA子を思わせた。
郵便受けで部屋を確かめ、汚れて黒ずんだ階段を登っていった。高度成長期の建物であろう、頑丈な鉄ドアは色あせ、名札のない部屋も多い。汗ばんだKは三階踊り場でひと息ついた。さっきの焦げ臭い匂いが鼻を刺す。??手すりにもたれて眼下を見ると、市の境界である川が鈍色に光り、焼却場らしい赤煉瓦建物から一筋の白煙がたなびいている。あの煙の匂いだろう、何を焼いているのだろうか。
303号の前で深呼吸するとおもむろにブザーを押した。ピンポ~ン。家人の出てくる気配がない。テレビの音が聞こえて人の気配がする。せっかく来たのだからこのまま帰る訳にはいかない。しつこくブザーを鳴らすと、中年女が顔を覗かせた。蓬髪が乱れ表情が険しい。
「A子さんのお宅ですね。T市の者ですが、A子さんが仕事に来られず、連絡もつかないんです。事情を伺いに参りました。」
険しかった女の表情が慌てて微笑んだ。目元がA子に似ている。作り笑顔でチェーンを外すと、「人目がありますよって」と招き入れた。市営住宅の間取りはどこも同じで玄関横の四畳半に通された。洋服ダンスと衣装ケースが積まれた狭間に小さな仏壇が置いてある。茶を出すと母親は深々と頭を下げた。
「娘はまだ帰ってません。今年はあの子がやっと卒業して就職できたことやし、お父さんの命日に田舎へ帰らせたですわ。ところが海が荒れて戻られませんのや。あの子が悪いんやありません。」
恨めしそうなに仏壇を見やりながら言った。
「うちの人はあの子が大学に入った年に亡くなったんです。会社を経営してたんやが、病弱のうちは継ぐことが出来ませんやろ。娘も大学生になったばかりやし、弁護士さんに頼んで整理してもろうたんです。オカネと家くらい残ると思うとったんですが、えらい借金があったようで一銭も残りませんでした。それどころか家まで取られてしもうて暮らしていけんようになって、身内に不義理してるから頼ることも出来ん。弁護士さんに頼んで市営住宅と生活保護を掛けあってもろうたんです。」
「ところが・・」と険しい表情に戻った。
「役所が、親が生活保護受けるんなら子供は働くべきやと言うんです。あの子は自分は役所の世話にならへん、自分のことは自分でする、それで精一杯や。お母さんは働かれへん、働かれへんのやから面倒見て欲しい。そない言うて頑張ったんですわ。親が言うのもなんやが、あの子は顔に似合わんしっかりしたところがあるんです。」
「あの子は自分の甲斐性で大学を卒業したんです。私立大学は何百万もかかりますやろ。夜遅くまでバイトしてました。二十歳の成人式に晴れ着を着せてやりたかったけど、それも出来んで・・可哀相な子ですわ。」
ひとしきり目元を拭うと顔を上げた。
「去年の夏に外食産業の内定をもろうたときは頑張った甲斐があった。良かった、良かった。これで人並みの暮らしが出来る。天に昇るような気持ちでしたわ。ところがリーマンショックでっしゃろ。内定が取り消されてどん底に落ちました。せっかく頑張って大学出たのになんちゅうことや?なんでやねん!」
頭を垂れて声が小さくなった。
「・・もしかして、お父さんの三周忌をしてないからやと思いましてん。・・それから毎日必死で仏さんを拝むようになりました。」
顔を上げて晴れやかな声で言った。
「・・願いが通じたんですわ!お宅の臨時職員に採用されましたやろ、ホッとしました。将来正職員になれるかも知れん。やっぱり仏さんが見てくれてはる、護ってくれてはる。・・あの子は毎日張り切って出勤しておったんです。」
仏壇の方を見て涙ぐんだ。
大阪の読者は以前、新聞の地域版に次のような三行記事が載ったのをご存じだろうか。
「T市人事委員会は総務課係長Kを元部下の女性にしつこく交際を求めたセクハラ行為により懲戒処分にした。」
この手の公務員の不祥事は日常茶飯事で見向きもされないが、Kを知る人はこの記事に驚いた。Kは四十半ばの独身主義者?で、虚弱体質で加齢が進み、頭髪銀色、長身痩躯、活力乏しく、セクハラすると思えなかった。地元の旧家だが早死の家系で両親と妹を亡くし、家は自分で絶えると定めて陽炎(かげろう)のように生きている。そんな彼がなぜ女性に血道を上げたのか、元職員の女性はどんな人物なのか、知人である私は興味をもった。
女性は臨時職員として彼が面接・採用した新卒のA子であった。
彼女はリーマンショックで内定を取り消され、政府の緊急雇用事業で臨時職に応募してきた。黒のスーツに色白の瓜実顔が映え、今風女子の派手さのない地味な娘であった。質問に小首を傾げ下唇を噛んで考える仕草が愛らしかった。彼女の振るまいが誰かに似ていていると感じた。それがA子を気に留めた始まりである。
A子を土木課に配置したが、男ばかりの職場で大丈夫だろうかと気になった。こんなことは初めてだが、用もないのに課を訪れて彼女の様子を確かめたり、働きぶりを尋ねたりした。課長の言では愛想が良くてどんな仕事も嫌がらず出来の良い子をよこしてくれた、むさ苦しい野郎職場が明るくなったと大好評であった。廊下ですれ違うと必ず会釈してくれ、彼女が微笑むと心にポ~と明かりが点るようであった。恋心めいたものが芽生えたのかもしれない。
ところが六月半ば、土木課からA子が無断欠勤して連絡がつかない、早急に調べて欲しいと依頼があった。そう言えばここ二,三日彼女の顔を見ていない。勝手に休むような子ではないし、何か事件に巻き込まれたのかも知れない。もしかしてセクハラにあって出勤できないのかも知れない。早速、Kは履歴書で住所を確かめると、その日の夕方彼女の家を訪ねたのである。
一
A子は川向こうの隣市が氾濫原につくった市営団地に住んでいた。
そこは飛び地で市街地から離れており、JRの駅から半時間近くバスに揺られなければならなかった。団地前のバス停で降りると、辺りは一面イチジクであろうか、低く刈り込まれた濃緑の果樹畑が広がっていた。眼前に昭和の古びた集合住宅が並んでいる。それは畑に乗り上げたタンカー群を思わせた。どんより淀んだ空が広がり、濡れ雑巾のような雲があかね色に染まりつつある。一陣の生温い風が頬を掠めた。何かが匂う。土の匂い?イチジク?もっと香ばしい魚を焼くような匂い。
Kはメモを取り出して住所を確かめた。D棟の303号、集合住宅の四棟目であろう。壁面のアルファベッドを確認しながら進んで行くと、汚れたコンクリート壁に細かな亀裂が走り、窓枠や手すりのペンキが剥げ、狭いベランダに傷んだストーブや座卓、鉢植えやポリタンが転がっている。自転車置き場も屋根が破れ、埃をかぶった三輪車や自転車が横倒しで、使えそうな乗り物は数えるほどである。
D棟の庭先に湿気を含んで青々と紫陽花が群生していた。青や紫の雪洞(ぼんぼり)のような花に混じってガク紫陽花であろうか、可憐な白い花が浮かんでいた。大ぶりの花塊のなかで小さくいかにも健(けな)気である。どことなくA子を思わせた。
郵便受けで部屋を確かめ、汚れて黒ずんだ階段を登っていった。高度成長期の建物であろう、頑丈な鉄ドアは色あせ、名札のない部屋も多い。汗ばんだKは三階踊り場でひと息ついた。さっきの焦げ臭い匂いが鼻を刺す。??手すりにもたれて眼下を見ると、市の境界である川が鈍色に光り、焼却場らしい赤煉瓦建物から一筋の白煙がたなびいている。あの煙の匂いだろう、何を焼いているのだろうか。
303号の前で深呼吸するとおもむろにブザーを押した。ピンポ~ン。家人の出てくる気配がない。テレビの音が聞こえて人の気配がする。せっかく来たのだからこのまま帰る訳にはいかない。しつこくブザーを鳴らすと、中年女が顔を覗かせた。蓬髪が乱れ表情が険しい。
「A子さんのお宅ですね。T市の者ですが、A子さんが仕事に来られず、連絡もつかないんです。事情を伺いに参りました。」
険しかった女の表情が慌てて微笑んだ。目元がA子に似ている。作り笑顔でチェーンを外すと、「人目がありますよって」と招き入れた。市営住宅の間取りはどこも同じで玄関横の四畳半に通された。洋服ダンスと衣装ケースが積まれた狭間に小さな仏壇が置いてある。茶を出すと母親は深々と頭を下げた。
「娘はまだ帰ってません。今年はあの子がやっと卒業して就職できたことやし、お父さんの命日に田舎へ帰らせたですわ。ところが海が荒れて戻られませんのや。あの子が悪いんやありません。」
恨めしそうなに仏壇を見やりながら言った。
「うちの人はあの子が大学に入った年に亡くなったんです。会社を経営してたんやが、病弱のうちは継ぐことが出来ませんやろ。娘も大学生になったばかりやし、弁護士さんに頼んで整理してもろうたんです。オカネと家くらい残ると思うとったんですが、えらい借金があったようで一銭も残りませんでした。それどころか家まで取られてしもうて暮らしていけんようになって、身内に不義理してるから頼ることも出来ん。弁護士さんに頼んで市営住宅と生活保護を掛けあってもろうたんです。」
「ところが・・」と険しい表情に戻った。
「役所が、親が生活保護受けるんなら子供は働くべきやと言うんです。あの子は自分は役所の世話にならへん、自分のことは自分でする、それで精一杯や。お母さんは働かれへん、働かれへんのやから面倒見て欲しい。そない言うて頑張ったんですわ。親が言うのもなんやが、あの子は顔に似合わんしっかりしたところがあるんです。」
「あの子は自分の甲斐性で大学を卒業したんです。私立大学は何百万もかかりますやろ。夜遅くまでバイトしてました。二十歳の成人式に晴れ着を着せてやりたかったけど、それも出来んで・・可哀相な子ですわ。」
ひとしきり目元を拭うと顔を上げた。
「去年の夏に外食産業の内定をもろうたときは頑張った甲斐があった。良かった、良かった。これで人並みの暮らしが出来る。天に昇るような気持ちでしたわ。ところがリーマンショックでっしゃろ。内定が取り消されてどん底に落ちました。せっかく頑張って大学出たのになんちゅうことや?なんでやねん!」
頭を垂れて声が小さくなった。
「・・もしかして、お父さんの三周忌をしてないからやと思いましてん。・・それから毎日必死で仏さんを拝むようになりました。」
顔を上げて晴れやかな声で言った。
「・・願いが通じたんですわ!お宅の臨時職員に採用されましたやろ、ホッとしました。将来正職員になれるかも知れん。やっぱり仏さんが見てくれてはる、護ってくれてはる。・・あの子は毎日張り切って出勤しておったんです。」
仏壇の方を見て涙ぐんだ。