最終電車 4
その全ては一筆目で決まる。大体一筆目で、これはこんな感じになるだろうな、と想像がついてしまうのだ(あくまでも、僕は)。一種とスリルと言ったものだろうか。本当に楽しくてたまらない。
「……」
風の音と、しゅっしゅっと線を描く鉛筆の音しか聞こえない。
生きているものを描くのは初めてだから、少し緊張した。頭の中でイメージは大体ついている。多分だが、これは僕にとって思い出に残る一枚になるかもしれない。なんたって、モデルが全く静止しているものではないのだ。
「……」
僕が言った通りに、遠野は微笑んだまま止まっている。もちろん瞬きぐらいはするのだが。
不思議なことに、僕はこの遠野伊沙という少女に今まで感じたことのなかった新たな感情を抱いているらしい。おかしな子という印象は変わらないし、会って2回目というのも忘れていない。だが、話していて楽しい程度だったこの少女に対して、心のどこかでそれ以外の感情が生まれたことは確かだった。
「……はい、終わり」
描き終わった。時間にして、3分程だった。
「あれ、速いねー。こういうのって30分くらいかかるものじゃないの?」
「……うーん、分からない。人を描くのって初めてだし」
と適当に答えたものの、少し違う気がする。何分ぐらいかかるのかは本当に知らないのだが、なんと言うか、遠野伊沙を止まったものとして見ていたくない気がする。
「そーかそーか。ま、短い方がモデルにとっては楽だよねー」
遠野は手を組んで前に大きく伸びをした。
やっぱり、なんとなくだが遠野には普通に喋ったり動いたりしている姿が似合う。
「で? 描いたやつはもちろん見せてくれるんだよね?」
「ん? あぁ、まぁ一応」
そう答えると、やったと笑いながら言ってスキップでこっちに寄ってきた。
自分が描いたものを見て、人に見せられるレベルかを確認してみる。……まぁいい方なんじゃないだろうか。
「……」
あんなに嬉しそうに笑っていた遠野が、僕の絵を見た瞬間に止まった。
「あれ、そんなに酷かったかなこれ。ごめん、描き直す」
紙の端をつまんで破ろうとしたところ、遠野はっと気づいたようにして僕の手首を慌てて掴んだ。
「駄目駄目!」
「え、なんで?」
「私は気に入らなくてびっくりしたんじゃないの! あまりにも上手だったからびっくりしたの!」
あまりにも真剣に言うものだから、じーっと彼女の眼を見つめてしまった。
「……な、にさ!」
「え? あぁ、うん……人に絵を褒められることってなかったから、ちょっと嬉しかった」
これは言ってしまうと悲しいことなのだが、僕には友達と呼べるほどの人物が周りにいなかった。美術部に所属しているわけでもなく、作品を誰かに見てもらうこと自体がなかった。
そういえば、まず僕は誰かに作品を見せること自体を嫌っていたのだと思う。絵は誰かの評価でなく、自分の評価で価値観が決まると思っていたからだ。プロの世界に入ると、いくら自分が満足したものでも「駄目」と否定されることがしょっちゅうあるらしい。そんなのは耐えられないと思う。
「そーかそーか! キミでも喜ぶことがあるんだねぇ!」
「……へっ?」
素っ頓狂な声を上げてしまった。原因である遠野の方を見ると、どうしたの?、と小首を傾げているだけだった。
「いや、喜ぶことがあるんだねぇ、って……逢う前から僕のこと知ってたの?」
「うーん……なんて言うか……」
遠野は少し考えて
「えーとね、授業サボって絵を描いてるやつがいるなーってけっこう前から知ってたのね。それがキミ。視力はいい方だから、描いたものが見れなくても、キミの顔ぐらいは見えてね」
「へぇ……ストーカー?」
冗談交じりにそう言うと
「黙って聞いてなさい」
と僕の頭を軽く叩いて続けた。
「でー、キミって絵を描き終わった時の自分の顔みたことある? すーっごい、寂しそうな顔してるんだよ」
頭の中が、真っ白になる。
ただ、この少女は何を言っているんだ?、という疑問だけが、頭の中を回っている。
「さっき私を描き終わった時は、随分とやわらかい顔してたけどさ。つまり―――」
「勝手なこと言うな」
静かに、怒りをこめて言った。
遠野も僕の雰囲気が変わったことに違うことに気付いたようで、びくっと怯えたような目でこっちを見た。
「僕のことなんて分からないだろ? 家の事情も、何を思いながら絵を描いているかも。君に分かるのは精々、僕が毎日昼休みにここで寝ていることぐらいだよ」
心の中では、やめろ、ともう一人の自分が言っている気がする。遠野には怒りをぶつけたくない、と思っている自分はどこかに絶対にいるのだが、そんなことも忘れて暴走する自分の存在が今は大きかった。
「な、何かあるなら、私に言ってくれていいんだよ? 私、できるだけ役に立ちたいと思ってて……」
今の僕に何かを言うなんて、遠野は大した勇気の持ち主だ、と思ってしまった。 遠野は今にも泣きそうだったけど、凛とした眼できちんと僕の眼を見ていた。
「そう……でも僕はそんなこと望んでもいない。僕は君のことを赤の他人とは思っていない。それでも、会って2回目だ。親しい関係だとは思ってないよ」
今の自分の顔を見てみたい。僕は今どんな顔をしているんだろう。鬼のような形相をしているだろうか。それとも―――寂しそうな顔でもしているだろうか。
「そんな人に悩みを相談するほど、僕は友人関係に困っていないよ」
嘘をついてしまった。友だちなんて1人もいない。必要だと思ったこともない。だけど、人に悩みを相談しようと思ったことはない。それは事実だった。
遠野はついに泣きだしてしまった。さっきまで泣かせたくない、とかそんな感じのことを思っていた。正確には、今も。だけど今はそんなことはどうでもいい。僕はこの少女が自分の領域に入ってくることを嫌がったのだ。
当たり前だがこのままここにいる気にはならず、僕は校舎の方へ去って行った。遠野の言った「寂しそう」という言葉が、心に残っていた。
宿題を終えて、風呂に入った。
昨日のような過ちを犯しはしない。2日連続であの男の前で寝るなんて、正真正銘の阿呆がやることだ。
だが、ゆっくりとお湯に浸かる気にはなれず、今日はシャワーで済ました。
夕食は学校帰りに買ってくるコンビニ弁当だ。誰かの手作り料理は、記憶にある限り食べたことがなかった。
母は夜遊びばかりのあの男に愛想を尽かして、5歳の時に出て行ってしまった。物心がついた時には既にあの2人は口喧嘩ばかりしていて、思い出もない。そりゃあ赤ちゃんの頃は、ミルクを飲んだり離乳食を食べたりしていただろうが、覚えているはずもない。
コンビニ弁当というのは不思議なもので、冷たくても美味しい。電子レンジで温めると更に美味しい。と言うか、コンビニ弁当以外のものはあまり食べたことがないので、比較するものがない。どれが美味しいかとか、そういうのが分からないのだ。
いつものコンビニ弁当を食べ終わって、容器と割り箸をゴミ箱に捨てた。