最終電車 4
濡れ雑巾だけ用意して、鉛筆を握った。暇な時間は絵を描くのだ。あの男が帰ってくる時間は決まっていないから、玄関が開いた音と共にスケッチブックを積んである雑誌の中に紛れ込ませ床を拭いていれば、あの男はすんなり騙される。
「……」
最後に描いたページを必然的に見ることになった。
微笑んでいる遠野の顔。初めての、生きているものだ。今にも動き出しそうという表現は程遠いが、気に入っていた。ただ、あんなことがあった後だと、絵にでさえ怒りが湧いてくる。
「……はぁ……」
それでも「作品」なのだから、破る気にはなれなかった。
仕方なく胸にもやもやを残したまま、自分の好きなものを描き始めた。いつも模写ばかりしているわけではない。むしろ、自分の頭の中での想像を、そのまま好きに描いてみることの方が多かった。
3時間程経った。
5枚目の絵を描こうとしたところで、玄関のドアが開く音が聞こえた。あの男が帰ってきたのだ。
すぐさまスケッチブックを隠して、雑巾を手に取った。
あの男がリビングに入ってきた。いつも以上に顔が赤い。きっと今日は賭けで酷い負け方をしたのだろう。
こんな日は
「はっ、今日はやってるじゃねぇか。ご苦労さん。だけどよぉ、今日は掃除はいいから、こっちを手伝ってくれねぇか?」
男の言葉の後に、視界がぶれた。
案の定、蹴られたのだった。幸い、部屋にはカーペットが敷いてあるから、昨日程の痛みは感じなかった。
男が僕の胸倉を掴んだ。いつでも殴れるぞ、とでも言うように、拳を構えていた。
「……っ、」
普段ならここは、「はいお手伝い致します。僕で良ければ好きにお使いください」と心にもない言葉を言うところだ。従順なフリをしていれば、この男の機嫌はよくなって早く終わることがある。
しかし今日はどうしても、そんな言葉を言う気にはなれなかった。そんな良い子ちゃんではない、と叫んでやりたかった。
そしてふと思った。
今までの不満を全部ぶつけて、この男の知らないところで死んでやるのが、この男に対する最高の仕返しなのではないかと。目の前で死んでいくんじゃない。そんなことしたってこの男には罪悪感も何も生まれないし、気持ちは高ぶる一方だろう。
実行するなら、今だ。
僕は―――この男の人形なんかではないのだ。
「……はっ、何馬鹿なこと言ってるんだ。僕がお前のストレス発散を手伝う? 舐めるな。僕はそんなマゾじゃない。お断りだよ」
小さい声だったけど、確かにこの男には届いた。
驚いたように目を丸くして、怒りで震えていた。
さぁ、言ってやれ。僕にあたることでしか気持ちをコントロールできない、ただのお子様に。
「―――やっぱりあんたは、最後まで最低なやつだったよ!」
そう叫んで、男のみぞおちを思いっきり蹴飛ばしてやった。吹っ飛ばされて、戸棚で頭と背中を打った。
このまま弱っているこの男に、今まで僕がされてきたことをするつもりはなかった。
何より今は、僕がこの場から消えて、一生戻ってこないということが、大事なのだから。
僕はそのまま靴を履いて外へ飛び出した。
さっき蹴られた痛みも忘れて、右のこめかみから再び流れ出した血にも気付かず、笑った。
「あっはは! あはははははは!!!」
最高の気分だった。
そして、行き先も分からない「どこか」へ、走り出した。