和尚さんの法話 『衆生仏を憶念すれば仏も亦衆生を憶念し給う』
あの世のほうがいいのだから。
偉い方々は皆さんあの世のいい所へいらっしゃるのです。
我々はだめだからこの世へ出てくるのです。
皆さんお地蔵さんへお参りなさるときに、家内安全、あの
人もこの人もと、そういうことを頼んで自分の後生のこと
を頼んでないんじゃないでしょうか。
自分の後生を頼んほうがいいですね。
仏様方は、この世のことを助けて欲しいと頼むより、あの
世の後生を助けて欲しいと頼んだほうが喜ぶんだそうです。
それが本当の仏様方のお仕事ですからね。
蓮如上人という方の言葉に、
「南無阿弥陀仏とは後生を助け給えということなり」
という文章があったように思うのですが。
これはいい言葉ですよね。
だから現世のことよりも、来世の事の方が大事なんです。
この世とあの世の価値転換をするといいですね。
兎に角、この世のことは一時ですよ。
病気は治ったって死ぬんだから。
病気をしなくてもどうせ死にます。
だからこの世で幸福といったって、ほんのしばらくの間
のことです。
ところがあの世の幸福というのは、永遠のものなんです。
本当の信仰を持って救われていったらね。
それの方が大事だし、仏様方もその方が喜ばれる。
それが純粋な仏教の信仰なんです。
ところがその純粋な信仰を説いてもなかなかとりつき難い。
だから、だったらせめてこの世のことでも助けようかと、
こういうことになってるんですね。
竜樹菩薩という方は、お釈迦さまが亡くなって六百年くら
い後の方なんですが、その竜樹菩薩も、あの世の救いを説
きなさいと。
あの世の救いが分からん者はこの世の救いを説けと、そう
書いてある。
仏教はあの世のとこの世、両方のご利益はあるんですが。
「現当両益」という言葉があるんですが、現世と当来世、
両益。
この世のことも勿論助けてくれますけど、神さんは、現当、
この世ですね。
神さんを如何に信仰しても、あの世で救うて頂くというわ
けにはいかないようです。
平家物語の清盛は地獄へ落ちるんですよね。
清盛は生きながらに七転八倒して熱い熱い熱いと言って死
んでいきますね。
その奥さんが夢で、地獄から火の車が迎えに来るという夢
まで見ますね。
ところが清盛は、厳島神社を建ててありますね。
その厳島神社の神さんが、地蔵霊験記では、誰かが夢を見
るのか、霊魂であの世へ行ってみるのか、所謂臨死体験で
すね。
清盛が閻魔さんの前へ据えられて、地獄へ落となねばいか
んと。
すると神さんが一人出てきて、どうぞ助けてやって欲しい
と頼むんですね。
ところがそれは、いかんと。
この者は大変な罪を犯していると。
仏教も破壊してるし坊さんも殺してるし。
その神さんはいったい何方かというと、厳島の神さんだと。
私の神社を建ててくれた。そういう恩があるんだと。
その利益によってどうぞ助けてやって欲しいと。
が、然しそれはまかりならんと。
閻魔さんがご承知にならん。
そういう場面があるんですね。
だから神様方も、仏に帰依してるんですよ。
お稲荷さんは、お地蔵さんに付いてますね。
お稲荷さんという神さんは、今は商売の神さんになってま
すが、元は農耕の神さんです。
だから稲を荷うですね。
それから食べる神さんですから転じて我々が商売の神さん
にしてしまったんですね。
ですが元は農耕の神さんです。地の神さんですね。
お地蔵さんは、地という字を書くように、地に関係がある
ようです。
地蔵経の中に、地神護法品というお経があるんですが、私
も朝に夜に読んでいますが、品というのは、章という意味
ですね。
堅牢地神、仏に白してと。
この地蔵経を説くときに、お釈迦さんと地神とのやりとり
が、この地神護法品。法を護ると。
仏に白して白さく、世尊我昔よりこの方無量の菩薩摩訶薩
を贍視頂禮。
ずうっと昔から私はいろんな菩薩摩訶薩を見てきておりま
す。
皆是大不可思議の神通智慧を持って。
其々の菩薩方は皆超能力を持って衆生済度をしております
と。
この地蔵菩薩は、六道の一切衆生を教化して、起こすとこ
ろの誓願の個数、誓願の数ですね。千百憶恒河沙の如し。
無量無辺で数えられない。
浜の真砂の数ほどあると。
こういうふうに地神とお地蔵さんの関係がありますのでね。
地神がお地蔵さんに帰依してるんです。
我々がお地蔵さんに帰依しますね。
すると地神がお地蔵さんに帰依してますから、この者はお
地蔵さんに帰依しているなということで、この地神が護っ
ているということです。
私が護ると、そういうことをお経に書いてるんです。
そういうふうに神々が仏教に帰依し、そして仏法を守護し
てる。
その神さんもいずれは仏さんに成っていくのです。
だから最後は、行き着くところは仏なんですよ。
全て仏に成るまで、お地蔵さんは、私は仏に成りませんと、
こういうお誓いを建ててるんです。
話はあちこちになりましたが、
「衆生仏を憶念すれば仏も亦衆生を憶念し給う」。
親が子を忘れないように、絶えず仏様を忘れないという信
仰をすると。
仏様はちゃんと見届けて下さっているということです。
仏様は実在するんだということが前提ですね。
あの世があるのか無いのか、半信半疑。神さんも仏さんも
あるのか無いのか、というようなことでは、憶念という気
持ちにはなれないと思いますね。
お話しが替わりますが、和尚さんを訪ねて、或るお客さん
が来られたそうです。
そのお客さんの後ろに、梅の花が沢山咲いているのが見え
たんだそうです。
その梅畑の真ん中に道があって、その未知の突き当たりの
ところに、祠が見えるそうです。
和尚さんの妄想で無ければ、その人はそこに参ってるか、
なにか縁があるだろうと。
そしてそのお客さんに、梅の畑があって真ん中に道があっ
て、その突き当たりになにか神仏をお祀りしてある。
そんなところへお参りなさいませんかと聞いた。
すると、いいえと言った。
そこへ参りに行くのが目的ではなくても、仮に散歩すると
きにその道があってお参りする。
そんなことはありませんかと聞いた。
それでも、そんなことはありませんと。
こういうふうに始めはそう言ってたんですね。
そして話をしているうちに、後になって思いだしてきて、
それは電車の窓から見える風景ですと。
嵐山から四条大宮へ通う電車の窓から、梅の花がたくさん
咲いてる畑があって、その真ん中に確かに道があったと。
その突き当たりになにか知らないけど祀ってあったと。
電車の窓から見えるだけだからはっきり分からないけど、
あれは神さんに違いないと思うと。
そのお客さんは、通りすがりに神さんや仏さんがお祀りし
てあったら必ず頭を下げますと。
電車の中から拝むのをその神さんがちゃんと受け止めてい
たわけですね。
和尚さんがその梅畑が見えたということは、護っているぞ
ということを知らせたわけですね。
また別のお客さんが来たとき、ケヤキかムクの大きな木が
庭に生えてるのが見えた。
大きな屋敷きで、夏草もぼうぼうに生えてるんですね。
その中に、ぽつんぽつんと三つ、石仏が見えたそうです。
見えたということは、その人が拝んでるということですね。
作品名:和尚さんの法話 『衆生仏を憶念すれば仏も亦衆生を憶念し給う』 作家名:みわ