九尾の狐の夏花火
「ふう…。」
翡翠は、少しひんやりとしてミントの香りがする湯船にゆっくりと浸かった。
化粧は落としてある。汗で湿った黒髪も洗い、タオルで巻いてある。
「Gショック、何色あるんだろ…赤欲しいな。」
筋肉痛にならないように腕のマッサージをしながら、空想にふける。
楽しみと共に不安もある。
もし、鏡に映ったときに瑠璃が映ってしまったら…
瑠璃はあの缶の中に入っていた幼児の霊なのだ。あれ以来、鏡に映るのを出来るだけ避けていた。
とは言っても、瑠璃はたまに鏡に映るだけで、他は特に害はない。
一例を除いては。
翡翠が頭で考えていることは全て瑠璃に筒抜けなのだ。
だから、鏡に映るときは翡翠に話しかけてくる。
他の人には瑠璃は見えないが、あの嫌味ったらしい口調で話しかけられると頭に血がのぼる。
「翡翠―、いい加減に出ろよー。」
脱衣所から呂律の回っていない父親の声がした。
「もうちょっと休ませろよ、こっちは炎天下の中働いてきたんだぞ。」
「だからって、長く入ることないだろ?」
「うっせーな、出るから脱衣所から出てけ。」
「えー…しょうがないなぁ…。」
曇りガラス越しに睨みつけると、父親はぶつぶつ文句を言いながら脱衣所から出て行った。
「はぁ…。」
浴室を出ると、大きいバスタオルで身体と頭を丁寧に拭き、髪を乾かす。
パジャマ代わりのジャージを着ると脱衣所から出て、キッチンへと向かった。
ペットボトルに入った冷たい麦茶を一気に飲み干すと身体の芯に染み渡る気がした。
「大丈夫?顔色悪いわよ?」
キッチンで食器の洗物をしていた母親がタオルで手を拭くと心配そうに翡翠の額に手を当てた。
「大丈夫。あー、でもちょっと疲れたかな。もう寝る。」
「そうなの。そうそう、翡翠の部屋、エアコンつけといたから涼しいわよ。」
ここまで気が利く母親は滅多にいないだろう。そう思うたびに翡翠はあんな父親のことが憎くなるのだ。
(離婚すればいいのに…)
もちろん、そんなことは口に出しては言えないが。
「あ、明日友達と出かけるからお昼ご飯要らないから。」
「あら、デート?」
「違う!」
思わず顔が真っ赤になった。おじさんに絡まれたときに助けてくれた孔雀の顔が頭に浮かんだからだ。
「友達…だから。恋人なんかじゃないから…。ちょっと買い物行くだけ。」
「そうなの。じゃ、お昼はいいのね。晩御飯も要らなかったら電話してちょうだい。」
「うん。…おやすみ!」
「はい、おやすみ。」
翡翠はキッチンから出ると、蒸し暑い廊下を通り、涼しい自室へと入った。
朝との温度差を考えたくない程、涼しかった。
恐らく、翡翠が帰って来た時にエアコンをつけたのだろう。
「はー…。」
ベットに横になると音楽をかけ、今日起こったことをいろいろと考えてみる。
大好きなバンドの新しいアルバムの最後の曲を聴きながら考え事をするのは、翡翠にとって最もリラックス出来る時間だった。
その曲を聴くと、海の底を漂って海面を見つめているようで、それでも「落ち込む」というよりか、安心する感覚だった。
目を閉じると浮遊感のあるヴォーカルの声が心地いい。このバンドはデビューしてからだいぶ経つが、初期の頃と何も変わらない珍しいバンドだ。
「あー…。」
ふかふかの布団に埋もれてる感覚でだんだん眠りに落ちていく。
無意識に浮かんだのは、孔雀の無邪気な笑顔だった。
第三章
「…あつっ。」
今日も翡翠は熱気で起きた。時計を見ると十時近かった。
「やっば、遅刻!」
慌てて起きるが、ベットを飛び下りた時点で疑問が浮かんだ。
「遅刻…か?」
昨日のことを寝ぼけた頭で必死に思い出す。
一、 逢う約束はした。
二、 待ち合わせ場所も決めた。
三、 時間は指定されてない。
「逢うつったら…何時なんだ?」
数少ない友達と遊んだ時のことを基準に考えてみる。
大体、正午に待ち合わせだった…気がする。
「…支度しよ。」
洋服はいつも通りに黒のダメージジーンズ、クラッシュ加工のTシャツにした。昨日は夏祭りだったので機能性を考えてタンクトップにしたが、翡翠の普段着はいわゆる男装で自身は「男装女子だ」と言っている。
胸が大きいのがコンプレックスだが。
アクセサリーは、ヴィヴィアンのアーマーリングを右手薬指に嵌めた。昔、尊敬していたベーシストがそこに嵌めていたからだ。
着替えが終わると、階下へ降りていく。
「おはよう、翡翠。」
「おはよ。親父は?」
「なんか、同級生に誘われたらしくて競馬に行ったわ。」
言葉が出なかった。
「翡翠も今日出かけるのよね?久しぶりにお母さん、ゆっくり出来るわ。」
そう言って母親は笑うと、洗濯ものを干しにベランダへ行った。
食卓には、フレンチトースト、チーズ入りオムレツ、温野菜のサラダ、そして、ウサギの形をした林檎が剥いてあった。
暑さで弱ってるはずの胃腸が活動を始めるのが判った。
「いただきます!」
母親の作る朝食はとても美味しくてどっかで料理店を出せるのではないかと思ってしまう程だ。
化粧をする時間を考えつつも、十分に咀嚼して朝食を済ますと、洗面所に向かった。
そして、化粧の系統を考える。
(いつも通りでいいか…)
いつも通り、紫のカラコンを入れ、マットな茶色のグラデーションのアイシャドウでアイライナーで瞼を黒く塗りつぶす。
少し長めになってきた黒髪をすじ盛りでセットすると、いつも通りの翡翠が出来上がった。
時計を見ると、正午近い。
「急がなきゃ!」
慌てて自室に戻り、バックを掴むと家を飛び出した。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい、気をつけるのよ!」
ベランダでバスタオルを干す母親に笑顔で手を振ると勢いよく走りだした。
「おー、やっと来たか!」
待ち合わせ場所に行くと、呆れ顔で地面に座りこんで孔雀がコーラを飲んでいた。
「ごめん。待った?」
「1時間くらい。今日も暑いし、早く涼しいとこ行きてぇよ。」
ジーンズに付いた砂を掃いながら孔雀は立ち上がった。
「じゃあ、早く行こう。あたしも早く涼みたい。」
幸い、大型ショッピングセンターまでは徒歩で行ける距離だった。
猛暑の中、日陰を選びつつ、すたすたと歩きながら短い会話をした。
「翡翠ちゃんって、いつも何してるの?」
「んー、ジムとか、ちょっと前はバイトとか…最近は、家事手伝い。」
「花嫁修業?」
「違ぇよ、結婚なんか考えてねえし。お母さん、いろいろ苦労してるから手伝ってるだけ。バイトは最近やってない。派遣で登録してたんだけどな。あとは、ジム。結構楽しいんだよ。設備も整ってて、スタッフさんも優しいし、髪の毛が落ちてないほど綺麗だし。それに安いしな。」
「ふうん。」
「孔雀は?」
「俺は昨日も言ったけど、バンドとバイトの繰り返しの毎日。今は何とか一人暮らし出来てる程度。家だとバンドしてると親煩いし。一人暮らし、結構慣れてきたら快適。」
そう言いながら自動販売機のごみカゴに飲み干したコーラの缶を投げ入れた。
「な、今日、時計の他にアクセサリー見ていいか?」