九尾の狐の夏花火
「くじゃ…く?」
「ほらほら、おじさん、早く帰らないと奥さんに叱られちゃうよ?」
そう言った孔雀のデジタル腕時計は午前2時を指していた。
「あー、怒られちゃうなー、これはー。じゃ、翡翠ちゃん、おやすみー。」
驚くことにおっさんはするり、と翡翠から腕を離し、空になったビール瓶を翡翠に渡し、鼻歌を歌いながら千鳥足で帰って行った。
しかし、空のビール瓶で何をしろと言うのだ。
「自分で片付けろよなー。」
翡翠はごみ袋にビール瓶を投げ入れた。
「翡翠ちゃん、大丈夫?」
「あ、大丈夫。慣れてるから。でも、もう2時なんだな…。」
「実はね…、これ、日本の時間じゃないんだよ。」
「…え?」
言っている意味が全く分からない。
「俺の時計、世界時計だから。」
そう言って、ボタンをカチッと押すと電子音と共に時間が9時になった。
「すげー。」
「こういうの持ってた方が良いよ。またこういうことに遭うかもしれないし。」
「でも、あたし、時計壊しちゃうからなー。」
「Gショックとかは?」
「…なにそれ。」
「あらゆる衝撃に耐えるっていう時計。昔、俺のダチがふざけて家の2階から落としたことあるけど、普通に耐えられたし。今なら旧型が安く売ってるけど。」
「へー…欲しいな。」
あらゆる衝撃に耐えるし、完全防水とくれば、ジムの時も付けていられる。今まではヴィヴィアンの時計を買おうと思っていたのだが、丈夫なGショックの方が欲しくなってきた。
「何処で売ってるんだ?」
「大型ショッピングセンターとかで売ってるよ。今度、見に行かない?」
「…明日とかは?」
「いいよ、バイトもスタジオもないし。じゃ、ここで待ち合わせで。」
孔雀はそういうと大きな桜の木の幹をぺしぺしと叩いた。
「おう。」
「じゃ、お休み、夜道気を付けてね。」
「…おやすみ。」
翡翠は孔雀が暗闇に消えてから、帰路についた。
「おかえり、疲れたでしょ、お風呂沸かしてあるわよ。」
「ありがと。親父は?」
「まだビール呑んでるのよ…本当に酒好きなんだから。」
働きもせず、一日中ごろごろして、ビールを呑んでいる父親を母親は全く咎めない。
これも一種の共依存だろう。
「親父―。」
「おかえりー、翡翠、ちゃんと働いた?」
居間に行くと、ソファに豪快に寝転んでアルコールを摂取している人特有のどろんと濁った眼で父親が翡翠を見つめる。
「少なくとも親父よりは働いたよ。」
「それは偉いねー、はい、お給料―。」
恐らく、母親の財布から出した5万円を翡翠に握らせた。
「今度はてめぇの働いた金で渡せよな。」
触り心地の悪い5万円を受け取ると、財布に突っ込み、洗面所へと向かった。
「あー…。」
鏡に向かい、呟く。
「明日、行きたくねえよ…男と歩きたくねえよ…。」
一般的に考えれば、これは独り言だ。なのに、翡翠の場合は「独り言」ではないのだ。
「じゃあ、妾が代わりに行こか?」
鏡に映っていた翡翠の姿が歪んでいく。数秒後にはストレートの黒髪だった翡翠ではなく、長い紫色の長い髪をした着物姿の妖艶な女が映っていた。
「瑠璃、明日はあたしが行くから。喋らなくていいから。大人しくしてて。」
鏡に映った女が扇子で口元を隠しながら言った。
「なんやの、あの桜の木、わっちが埋まってる木や。あの男に教えて驚かしてやればええやんか。」
「ぜってぇそんなことはしねえよ。」
「おお、怖い怖い。可愛い翡翠ちゃんがこないな子になってしまうとは…呪いは恐ろしいものやねえ…。」
「黙れ!!!!!!!」
翡翠は水道から流れ出る水を思いっきり鏡にかけた。
すると、瑠璃の姿は消え、目を充血させた黒髪の翡翠の姿が映った。
「畜生…。」
翡翠はその場にへたり込んだ。
堪えようと思っても、涙が溢れてくる。
こうなったのは、翡翠が7歳だった頃だ。
まだこの街に翡翠一家が引っ越してきてから、数週間ほどたった時だった。
「あ、さくらの木だー!」
翡翠はその日も近所を散歩していた。家にいるよりも楽しいし、逢う人々は皆優しかった。
桜の木は今が満開だろう。花びらが散っている。
「ここにお城を作ろう!」
早速、家からカラフルなプラスチックの熊手やらスコップを持って来て、掘り始めた。
まだ小春日和だったが、幼い翡翠のストレートの黒髪が汗で湿っていく。
「…?」
地面を掘り進めてたプラスチックのスコップがカチン、と音を立てて止まった。
「…なんだろ、これぇ。」
それは30センチほどのアルミ製の缶だった。
「もしかして、たいむかぷせるかな!?」
手を泥で汚しながらも錆びついた缶を掘り起し、嬉々としながら開けた。
「ひっ!」
中には骨が入っていた。それも、赤子と思われる小さな骨だった。
その時、急に突風が吹き荒れ、花吹雪がまだ幼い翡翠の頬を打ちつけた。
「きゃあああ!!!!」
思わず、缶を放り投げてしまった。骨が、カラカラと笑うように動いた。
「お前、名前は?」
遺骨から声がした。
「知らない人に名前を言ってはいけない」、親が出かける度、口を酸っぱくして言っていた言葉もすっかり忘れてしまった。
「ひすい…。」
「翡翠、いい名や。お前の身体、復讐に使わせてもらう。」
突然の宣告に訳も判らず戸惑っていると、周りが暗闇になり紫色の光が翡翠の左胸に入って行った。
「いやああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!」
翡翠は桜の木に寄りかかるにして、倒れた。
暗闇がなくなり、起き上った翡翠は表情が変わっていた。
年相応の幼い顔つきではなく、まるで手負いの獣のような、それでも気高くあろうとする顔で呟いた。
「畜生…、許さぬ。」