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和尚さんの法話 『自信教人信』

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んですが、生まれた限りは仏法に遭うということです。

仏法に遭わなかったら、無駄に死んで亦生まれ変わって来
なければならない。
ところが人間界に生まれ変わってきたら仏法に遭うチャン
スがある。その仏法に遭うことが大事だから、この世へ生
まれたことを大事に思わないといかん、とそういう人生観
ですね。

この世は大事だということは、仏法に遭うがためなんだと
いうことです。
何で仏法に遭うことが大事なのかというと、後生の為だと。

死んだら終い、たった一遍この世へ生まれてきたから大事
にせんならん、とそういうのと違う。
下手な死に方をしたら、亦この世へ生まれ変わってこなけ
ればいかん。
人間界へ帰ってくるなら結構なことですが、うっかりする
と地獄へ行く。
何度も言うようですが、平清盛は地獄へ落ちたと思うので
すね。

驕って驕って人を殺して、あそこまでくるというのは前世
でよほどいい事をしてあるからだろ思うのです。
偶然と違うのです。
何かそれだけの得があったに違いないですね、前世に。
だから一応あのくらい高い位に着けた。
ところが人間というのは浅ましいもので、自由自在になっ
たらもうお山の大将になってしまって、俺は何をしたって
いいんだと。
今日でも、大きな会社の社長にでもなったら、そんな気に
なるのと違いますか。
気が大きくなって少々のことはと。驕りですね。
そこが怖いんですよね。
そうすると、折角築いた前世の功徳が崩れてしまって、清
盛じゃないが地獄に落ちたと。
清盛の奥さんが夢を見て、火の車が屋敷きに入ってきたん
ですね。
あれは何ですかと聞くと、清盛を迎えに来たと。
その火の車の前に鉄の板があって無と書いてある。
無間地獄から迎えに来た火の車ですね。最悪の地獄ですね。

無間地獄とは、間が無く、次から次から間断なく苦しみに
苛まれる。休む間が無い地獄を無間地獄というのですね。
無の字の下の間の文字が消えてたけど、無間地獄に落ちる
可能性があると夢の中で説明を受けるんですね。

物語の中にありますよね、単なる作り話ではないと思うの
です。
死後にそういうことがあるから、それのつもりをしておか
にといかんと、だからこの世は大事なんだということです。
うっかりしてると何処へ堕ち込むかわかららい。

気を付けていてもなかなか上手い事いかないのに、況やこ
の世の不注意で死んでしまってあの世へ行ったら、後悔し
ても遅い。

「たまたま仏法に遇う事得たりとも、自力修行の門は、末
代なれば今の時は出離生死の道は叶い難し」

たまたま仏法に遇うことは出来ても自力だと。
難行苦行をしなければならないような仏法であるならば、
現在はもう末法ですから、末法の時代ではとてもじゃない
が自力では相応しくない。
相応しくないということは、生まれてきてる人間の根気が
もう劣ってるということですね。
正法、像法時代のような我々ではないというのですね。

「阿弥陀如来の本願に遭い奉らば、いたずらごとなり」
だから阿弥陀様の御本願に遭えなかったならば、我々はい
ったいどうなるであろうと。こういうお嘆きですね。

「然るに今既に、我等弘願の一法に遇うことを得たり」
弘願の一法ということは、弥陀の本願ですね。
つまり南無阿弥陀仏で極楽へ往生出来るということ。

『至心に心経して我が国に生ぜんと欲し、乃至十念せんに
も生ぜずんば我正覚を取らじ』と、
阿弥陀様は我々に誓ってくれているのです。

至心にとは、一所懸命に信仰して、極楽に生まれようと思
うて、乃至十念。例え十遍でも称えて、而も私が救えない
ということでは、私は仏に成りませんと、嘗て阿弥陀様が
まだ如来に成る前にお誓いになったお誓いなんですよ。

現在その阿弥陀様が如来に成られたということは、そのお
誓いは必ず果たされるということです。

只そのご誓願に我々がすることが合うか合わないかという
ことに疑問があるんですよね。
いい加減なことでは、その弥陀の本願には叶わない。

だから真剣に極楽浄土を求める信仰を頂かないというと、
うかつな気持ちでは極楽へは往生出来ないということです。

「此の故に、只願うべきは極楽浄土、只頼むべきは弥陀如
来、是に依りて信心決定して念仏申すべきなり」

そういう次第だから、信心決定。これが大事ですね。
何が起こってきても揺るがない。変わらない。
不動であるというような心境ですね。
南無阿弥陀仏によって極楽往生願う。
どうしても阿弥陀様のお膝元へ引き取って頂きたいんだ、
という切なる願いを忘れんと、暇が有ったら念仏を称えさ
せて頂くと、こういうことです。

「八万の法蔵を知ると雖も、後生を知らざる人を愚者とす
る」

八万の法蔵とは、仏法を全て知ったとしても、後生のこと
を知らないという人は、それは愚者だと、愚か者であると。

「例え一問不知の尼入道と雖も、後生を知るを智者と為す」

いろはのいの字も知らんというような尼さんであっても、
後生を知るを智者であると。これは名言ですね。

「然ればあながち諸の聖教を読み、ものを知りたりという
とも」
いろんなお経を読んで、八万の法門に通じていろんなお経
を知ってると、学問は十分したと。

「一念の信心の謂れを知らざる人は」
ということは、極楽浄土の信心の決定を出来ていない人と
いう意味ですね。
極楽往生をひたすら願うという気持ちが決定していない。

そういう人は、
「悪戯事なりと知るべし」
それはもう何の役にも立たない。
そんな学問は何も役に立たんということですね。

「されば上人の言葉にも、」
というのは、蓮如上人の言ってることで、この上人という
のは親鸞上人を指してるんですね。

「一切の老若男女であろうが、弥陀の本願を信ぜずしては
助かるということあるべからず」
兎に角、男であろうが女であろうが、年寄りであろうが弥
陀の本願を信じなくして救われるということは有り得ない。

末法では自力ではとても叶わんのだから、阿弥陀様の御慈
悲にすがらないとだめなんだと。老若男女にかかわらずと
いうことです。

「此のうえに如何なる女人なりというとも諸の像行を捨て
と」
他の信心に心を乱さないで、「ひたすらに一心不乱に弥陀
如来、今度の後生助け給えと深く頼み申さん人は、十人は
十人百人は百人皆共に弥陀の浄土に往生すべき事さらさら
疑いを持たん」

今度の後生というのは、今度死んだらということですね。
これはもうこのとうりですね。
このとうりに、昔の坊さんはこういうふうに説いてきてる
んですよね。
それが現在には通用しないというふうにとらえる向きが有
る。
仏教はもう一度こういう昔に戻らないといかんと思います
ね。

この昔のこういう人は親鸞上人は京都に居って、関東の同
行の人は後生のために歩いて来たんですね、何カ月も歩い
て訪ねてきた。
それは後生のために。
後生のために山を越え、海を渡って京都へ来て、そして親
鸞聖人に遇うて、そして仏法は後生のためにはどうしたら
宜しいですかと。
そういうふうに昔の人は後生後生と後生を大事にと。

後生ほど大事にという言葉がありますが、後生が一番大事