和尚さんの法話 『自信教人信』
何時までも何時までも別れを惜しんでいるんだというよう
なことを私が教えたかと。
私は無常ということを説いただろう。
其の時に、この文章をもらされてるんですね。
だからこの身体というのは敵みたいなものなんだと。
その敵を滅ぼした、やれやれと安堵感であり歓喜すると。
本当の智者ならばそういう考えを持つはずだということで
すね。
これが仏教的な人生観ですね。
お経にちゃんと説いてあるわけです。
これはお釈迦様のお言葉そのものなんですね。
これは確か、仏遺教経というお経。
つまりお釈迦様の遺言のお経の中の一説で、お釈迦様の一
番最後に説かれたお経。だったと思います。
こういうふうに仏教というものは、この世よりも、あの世
のことを重要の考えているわけです。
そこに地獄とか極楽という言葉が意味を持ってくるわけで
す。
地獄、極楽というのはお経に説いてあるから我々は知って
るんですからね。
自分がその言葉を見つけ出したんじゃないんですよ。
お経にあるから、そのお経にあるから昔の坊さんが云い伝
えてきたわけですよ、説教したりね。
現在残っているお経の中にも地獄という言葉も出てくれば
極楽という言葉も勿論出てくる。
現に私たちがお唱えしている浄土三部経という浄土を説い
たお経の中には、何処を紐解いても極楽ということを説い
てますね。
そしてその極楽にはどうしたら行けるのかということを教
えてあるんですよ。
それが仏教だということです。
それが後生、後生とは死んでからのこと。その死んでから
の用意を誤らないように、この世を生きる。
この世を楽しむためじゃなくて、この世を楽しんでたら、
あの世で苦しまんならん。
この世を例えば、犠牲にしてでも一所懸命に本当の道を求
めて、そして極楽へいったら、それはもう大きな幸せです
よね。
この幸せは、仏様の幸せと比べたらこの世の幸せというも
のは、ほんのちょっとしたものですよ。ほんの仮のもので
すよね。
結局最後は死ぬということがこの世には付いて廻るでしょ。
何があっても生きている間の話しですよ。命あってのもの
だねでね。
死んでしまってから、まだこの世に幸せが残ってるはずが
ないですから。あの世へ行ってしまうんだから。
この世にはどうしても死というものが付いて廻る。
この世は迷いです、この世へ迷い出てきてるんです。
ところが極楽は、別の言葉で無量寿国というんです。
無量の寿の国ですね。
つまり永遠の命の国。
だから極楽へ行ったら死なないんです。
歳もとらないし、病気もしないし、災難も無い、何も苦し
みが無い。
だから極楽というんですね、安楽国ともいうし、無憂国と
もいいますね。
そういう世界があるんですよ。
そういう世界がお経に説いてある。
勝手に言うのではない、お経に説いてあるんです。
そういう比較にならんような世界があの世にあるわけなん
ですからね。
そういう世界を求めていく。
仏教も宗教で、宗教もやはり幸福にならないといけません
からね。
宗教を求めて不幸になるというようじゃつまらん話ですよ
ね。
救われて不幸になるという話ではつまらん話ですね。
救われた、解脱した。それは安らぎでなければいけません
ね。幸福でなければなりませんね。
ただ我々が日常、今まで慣れ親しんできた幸福というのが
ありますね。
我々人間界を世間といいますが、これは勿論仏教の言葉で
ね。
それに対して、仏道の方の道を求めていくのは、出世間と
いうのです。
世間を出る。つまり超越する。
世間のレベルと、出世間のレベルと次元が違う。
だから世間が求める幸福というものと、出世間が求める幸
福というものとは次元が違う。
これもお経の中の例えにありましたので。
お釈迦様が、お前たちがこの世で幸福と思うのは、例えば、
汚い話でございますが、今では便所の下の方を見ることは
出来ませんけれども、昔の便所は下を見れました。
夏になってきましたら、ウジ虫がわきました。
そのウジ虫の彼等は、そのうんこの中がもの凄く幸せなん
ですね。
うんこから出したら死にますから、そこに居るから生きて
られるわけで。
そんな虫のような汚い世界で生きたいか、楽しみたいなど
とは我々は絶対に思わない。
だから彼等が幸せと思っているけど、我々人間が幸せと思
うものと次元が違うわけです。
虫にとったら幸せでしょうが、我々にはとてもじゃないが
そんな喜びは得られない。
それと同じことで、仏道から見た幸せというものと、一般
の世間の人々がいう幸せというものとの違いはこうだとい
う例えの話しがあります。
昔の人々は、兎に角後生、後生と後生を大事に生きたわけ
なんです。
蓮如上人の御文章というのがございますね。真宗の方はよ
くご存じと思いますが、その中にいい言葉がたくさん出て
きますのでご紹介を致しますと。
「無常」
「それつらつら人間の仇なる身を案ずるに、生ある者は必
ず死に帰し、盛んなる者は遂に衰うる習いなり。
是の故に、上は大聖世尊よりはじめて、下は悪逆の提婆に
至るまで、逃れ難きは無常なり。」
仇というのは、儚いという意味ですね。人間の世界は非常
に儚いものであると。
それを案ずるにというのは、思案してみると。
死に帰しとは、生まれた者は必ず死ぬ。
何時までも栄えるということはない。栄えたら滅びる。
盛者必衰ですね。
衰えたらまた栄えるかもしれませんが、また滅びる。
無常ですね。
そういう有り様であると。
お釈迦様でも、この世にお出ましになったら、つまり人間
の姿でお生まれになってるんですから。
魂は如来様ですけど、この世へ生まれようと思ったら人間
の胎内に宿って人間の身体になっれ出て来なければなりま
せんから。
然しの身体というのは仮の物だと。
本当の如来様は霊魂ですよね。お釈迦様という肉体の中の
霊魂ですね。
然しながら肉体を持ったから、人間の法則に従わなければ
ならない。上はというのは、一番上は仏様。
下というのは、お釈迦様を目の敵にしている提婆達多とい
って、何時までも何時までもお釈迦様の邪魔をしたという
人。
お釈迦様でも、この無常の道理からは逃れることが出来な
いということですね。
無常なり。というのは常が無い。
常無しということは結局は死ぬということですね。
常というのは変化しないということですね。
一定の状態が何時までも何時までも保っていく状態を常と
いいますが、ところがこの世には何処を見ても、目に見え
るか見えないかの話しであって常に変化している。
この地球でも変化してるんでしょ。何時かこの地球も無く
なる。太陽も無くなる。
我々にはそれを感じ取れないだけのことであって。
然しながら目に見えるものもある。
昨日まで元気だったあの人が死んだとか。
事故に遭ったとか。いうようなことは皆無常です。
常が無い。
だから結局、行き着くところは死だということですね。
その間に、老があり病がある。
逃れ難きは無常なり。
「然れば、まれにも受け難きは人身、遭い難きは仏法なり」
ここでは人身となっています。生まれた人間の身というこ
とです。
人間の身に生まれたことに生まれ難きと、大事にとってる
作品名:和尚さんの法話 『自信教人信』 作家名:みわ