和尚さんの法話 『自信教人信』
正法時代というのは、仏様もいらっしゃるが、仏様が亡
くなってからもまだ千年も続くということですね。
菩薩の化身が生まれ変わってくる。阿羅漢が生まれ変わ
ってきて仏法を護り、そしてその仏法で法を説く。
まず教えは残ってる。
その教えに従って修行をする。
修行によって悟りを開く。解脱するということです。
教、行、証。が揃ったのが正法ですね。
解脱というのは、救われるということです。
輪廻という言葉がありますね。生まれ変わり死に変わり。
現在我々は輪廻してきているわけです。
その輪廻する世界を、六道というのです。
お経の中に、輪廻とか六道とか説いてある。
その六道の中にはあの世を説いてますね。
地獄。餓鬼。畜生。修羅。人間。天上。
この六道を生まれ変わり死に変わりしている間は救われ
ていないと説いてあります。
この世へ生まれてきたらもうそれは救われていない証拠
なんです。
お釈迦さんは別です。
衆生済度の為に来られたのだからこれは別です。
我々は輪廻したくないけど、輪廻せざるを得ないからこ
の世へ出てきてるんです。
迷いの世界でも天上界となると、もの凄くいい世界なん
ですね、これが二十八ある。三界二十八天。
是も皆、あの世ですね。
我々はそういう所へ行けないで、この世の人間界へ来て
る。
地獄や餓鬼よりはいいけれど、天上界には及びません。
天上界には二十八あるけれども、その二十八にも入って
いない。
最低の天上界にも入ってない。人間ですからね。
そういう仕組みになっているわけです。
そういう輪廻している人を、解脱していないというのです。
解脱ということは、この輪廻から出ること。
出た人を解脱した人、覚った人というのです。
そういう教と行と証が揃ってるのが正法というのです。
次に「像法」に入ってきますと、教と行はそのまま残って
ますけれども、証が欠けてくる。
行をするけれども、なかなか解脱が出来ない。
全てではなけれども非常に少なくなってくるのですね。
そして「末法」に入ってくると、もう教えだけしかない。
今現在残ってるのは、この教え。
お経だけしか残って無いんですね。
正法、像法時代ならまだ偉い人がいらっしゃるかもしれな
いから、そういう方々にお聞き出来るわけです。
ところが現在は末法で、そういう智者が居られない。
況や覚りを開いた人はいない。
だからこの教えを自分で学ばないといけないわけです。
然しながらお経がありますから、このお経を採り間違えさ
えしなければ、少なくとも理解することが出来る。
その教えに従って、和尚さんが説いて下さってるわけです。
だから和尚さんのお話しには、教にはこうありますという
ことが多々出てくるわけです。
和尚さんがこう言ってますが、お経にはこうありますと。
勝手なことは言ってませんと。
そのお経から言いましたら、人生は一番大事だとは説いて
ないのです。
この世は厭うべき世界だと、苦の世界だと、どのお経を見
てもそう説いてある。
生老病死といいますね。生まれてから歳をとって、それか
ら病気になって死ぬ。
ただ歳をとって死ぬのならば、まだ目出たいですよね。
ところが若くして突然死ぬということもある。
或は災難が襲ってくるというようなことがありますね。
生老病死。これがこの世の人生ですね。
四苦八苦という言葉がありますが、四つの苦ですね。
生まれる苦しみ。
それから老いる苦しみ。
「四苦八苦」
病む苦しみ。
そして最後に死ぬ苦しみ。
救われた人はこんな苦しみに遭うはずがないというのです。
こういう苦しみがあるということは救われていないから。
だから我々は、生まれた限りには、老い、そしてやがて病
が来るでしょう、そして死ぬ。
それはみな仏教ではそれは苦しみと説くわけです。
その苦しみから、どうしたら逃れられるのかと。
つまり輪廻ですから、生まれた限りには死ぬ。
生まれて死なない人間はいないのですから。
結局は、どうしたら生まれずに済むかということになって
くるわけです。
もう生まれて来なくなった位。
つまり解脱した位を、「無生身」といいます。
もう生まれないんですね。
これを自力でいけば、難行苦行をするわけですけれども、
阿弥陀様におすがりすれば、阿弥陀様は極楽へ引き取って
下さる。
極楽へ引き取って頂いたら、これは輪廻から解脱させて頂
いたことになるのです。
これを浄土門といいます。
自力聖道門に対して、阿弥陀様におすがりして解脱させて
頂くから他力浄土門です。
自分で解脱するか、阿弥陀様によって解脱させて頂くか、
この二つの道があるわけなんです。
輪廻から脱するということですが、それは死後の世界も含
めて、死んだらもうあの世は永遠かというと、そうじゃな
い。また戻ってくる。
あの世へ行ってはまた戻り、行っては戻る。
何遍、我々はこの世へ生まれてきてるのか、それは自分で
は分からんけれども、何遍生まれてきてるか分からない。
だから我々はこの世へ生まれては死に生まれては死に来た
ときに残した骨。
朽ちてしまってますけど、その骨が残ってたとしますと、
その骨を積み重ねていくと、須弥山よりも高いというので
すね。
兎に角もの凄い高さになると。
富士山の何千倍、何百倍になるという高さになってくる。
無間の過去から積み重なってきた骨ですからね。
それくらい生まれ変わってきているというのです。
それは勝手に想像して言ってるんじゃない、お経に説いて
あるのです。
だから如何にすればこの輪廻の世界から脱することが出来
るかということを教えるのが、仏教だと思うのです。
この世が一番大事だというふうにはお経には説いてない。
お釈迦様は、どういう人生観といいますか、死生観といい
ますか、思っていられたか、つまりどういうふうに我々に
教えられたかと言いましたら、是はお釈迦様のおっしゃっ
ているお言葉の一部分、前後を省きました文章ですが。
「我今滅を得事(死ぬこと) 悪病を除くが如し(それは
病気から逃れるのと同じような意味なんだと) 之は実に
是れ厭うべき罪悪のものなり 仮に名付けて身体なす。
(おまえたちが別れるのが辛いというのは、私のこの身体
のことを言ってるんだろうと。
結局身体がその人だと、我々は思いますね。そうじゃなく
てその肉体は仮の物で霊魂がありますね、肉体はそれで死
んでしまいますけど霊魂は自由になっていく。
我々はなかなかあの世へ行ったからって、自由にはなりま
せん。
地獄へ行くか餓鬼へ行くかと、こうなったら大変なことに
なりますが、お釈迦様は自由になりますね、覚りを開いて
るんだから。)老死生死の大海に没在せり(無常の世界に
生まれたり死んだり、浮いたり沈んだりばかりしているも
のなんだ、この身体というものは)。
何ぞ智者(本当の道を求める人)は之を除滅する事(この
肉体を離れること)怨賊(仇)を殺すが如くにして而も歓
喜せざる事有らん。
お釈迦さまが亡くなるというときに、弟子たちが泣きます
わね。
沙羅双樹の樹のところで泣くわけですね。
で、お前たちはなにを泣くかと。
例え私が千年、万年生きたとしても何れ死ぬんだぞと。
作品名:和尚さんの法話 『自信教人信』 作家名:みわ