和尚さんの法話 『自信教人信』
「お経の数」
これはお経のなかの一説です。
自ら信じ、人を教えて信ぜしむ。ということです。
だから人にお話しするときに、まず自分が信じてもない
のに言うというのは、邪(よこしま)な説法であるとい
うことになりますね。
正しい説法じゃない。
だからお話しするには、まずは自分が信じていなければ
いかん。
と、こういう戒めの言葉があるわけです。
ですからどのお坊さんもそうしてなさってるんでしょう
けれども、聞いているとどうもあのお話しは違うなと、
本当の仏教じゃないぞと、こういうふうに感じることが
あるわけです。
だから皆さんもお聞きになって、あちらでも聞く、こち
らでも本を読まれる。
そしてまた、この和尚さんのお話しをお読みになると、
あの話とこの話と違うなと、いうことが出てくるんじゃ
ないかと思うのです。
和尚さんが生きていたら、ご質問にもお答えして頂ける
のですが、どうかこのお話しを信じてお読み頂ければと
思います。
八万四千法門というのですから、いろんな教えがありま
すね。
奥行きは深いし、間口は広いしね。
或るときお釈迦様が、道をお歩きになっていたときに、
菩提樹の樹が茂っていた。
そのひと枝をお折りになって、そしてその枝を皆に示し
て、「君たちよ、今私が折ったこのひと枝に付いている
この葉っぱと、この大きい樹の葉っぱと、どちらが多い
か」
ということをお尋ねになった。
そうしましたら阿難でしたか、何方でしたか、それはも
う例えになりませんと。
世尊が折られたひと枝の葉の数というのは、数えられま
す。
ところがこの樹に茂っている葉の数というのは、数える
ことができません。
これは何を例えたのかというと、お釈迦さまが覚りを開
いて今日まで説いた法門の、お経の数ですね分かり易く
いいますと。
お経の数を、手に持ってるひと枝の葉の数と仮定するな
らば、まだお釈迦様が説いていない法門が、この樹に残
っている葉のようなものだと。
お釈迦様が説いたものはほんのわずかなものなんだと。
もっともっと私(お釈迦様)の説いていないものがある
んだと。
寿命が足りないというのですね。説ききれない。
そういうふうな例えがあるくらいで、非常に仏教の教えと
いうものの幅が広くて奥行きが深い。
其の人の知ってることが和尚さんは知らない、和尚さんの
知ってることが其の人は知らないということが有り得るの
ですけれども、そういうのを一括して大きな間違いと思う
のは、人生はこの世だけだという前提に立って説く教え。
つまりあの世は無いんだと。
死後の世界というものは無いんだと。
人生はこの一生で終わりなんだと。
だからこの一生を如何に大切に生きるかを教えるのが仏教
だと。
こういうふうに説かれる方があるわけです。
死後の世界が無ければ、如何にしてこの世を生きていくか
というふうなところに着眼して、教えを説くということは
大事であろうとは思いますけどね。
然しながら、一歩譲って死後の世界が有る、というこにな
ってくると、その死後の世界はどうなってこうなってとい
うことになる。それのつもりをして一生を送らんというこ
とになると、死んであの世へ行ったときに、思わぬことが
目の前に現れてくる。
そのときになってしまったらもう遅い。
そういうことだと思うのです。
ですから、和尚さんのお話しの中にはどうしても死後の話
しが出てきます。
そういうことは、和尚さんが勝手に言ってるのじゃない。
何を根拠に言ってるのかというと、一つはやっぱりお経で
すね。
仏教というものは、お釈迦様がここにいらっしゃれば、お
釈迦様にお説き願えばそれで済むことです。ところが現在
はお釈迦様はいらっしゃらない。
そして法然上人や弘法大師のような方もいらっしゃらない。
こうなってくると、幸いにお経が残ってあるのですね。
この仏教は、お釈迦さまが初めて開いたというのじゃない。
この歴史上では釈迦如来という方は、如来という方はたく
さんいらっしゃいますね。
阿弥陀如来。釈迦如来。大日如来。薬師如来。皆さんのご
存じない如来様がたくさんありますね。
お経のなかに出てきますね。
この如来というのは、位なんです。
最高の位を如来というのです。
阿弥陀如来、釈迦如来、そういう如来様は最高の位に到達
した方で、もう是以上は無い。
最高の位に到達した方を皆如来というわけです。
釈迦というのはお名前ですね。薬師というのもお名前です
ね。
いろんな如来様がいらっしゃいますが、その前世ですね、
時間というのは永遠ですから無数の仏様がこの世へ出てく
るわけです。
次から次からこの世へ出て、そして仏教を説く。
そして長い年月の間には廃っていく。
天文学的な数字で時間が過ぎていく、そしてまたこの世へ
出てくる。頃合いを見計らって、今この時期にこの世へ出
てきたらいいという頃を見計らって、人間の姿となって現
れる。
そして仏教を説く。
それがまた、何れ廃る。
亦次の仏さんが出て仏教を説く。
こういうふうになってるもの凄くスケールの大きな宗教な
んです。
その仏様の数は、無数。
それを恒河砂数というのですね、お経の中に出てきます。
阿弥陀経の中にもありますね。
そういうふうに恒河砂数の仏様が過去にいらっしゃるわけ
です。
未来にも次から次から如来様が出てくる。
お釈迦様の次にこの世へ出てくる仏様は、皆さんもご存じ
の弥勒という方ですね。
今は菩薩ですけれども、今から五十六億七千万年後に出て
こられる。
この数字は仏教からいうと割と短い時間なんですよ。
仏教は、「劫」という時間がよく使われますね。
一劫とか十劫とかね。
劫という時間と比べると、五十六億七千万年というのは短
い。
この「劫」という時間はどれくらいの時間なのかという例
えが、一辺が百六十キロの真四角な石があって、その石が、
百年に一度天人が降りてくる。
そう仮定するんですね。
天人が羽衣を着てますね、その羽衣でその石の上をすうっ
と、擦って通る。
百年たつと、また天人が羽衣で石を擦る。
そしてその石が擦り減った。それが一劫だというのです。
だからその数からすると、五十六億七千万年というのは非
常に短い。
その五十六億七千万年後に出て売る如来様が弥勒。
今は弥勒菩薩ですが、次に出てくると如来様と成って出て
来られる。
然しその弥勒で終わるんじゃない。亦次の如来様がどれ位
か時間がたって出てくる。亦時間がたって次の仏様が出て
くる、そしてこの仏教を説くわけです。
そういうことで、一遍現れた仏教は永久というわけではな
いですね。
この現在お釈迦さんの仏教が、約一万年たったら滅びるこ
とになってあるのです。
「末法万年」
お釈迦様が予言してありますね。
末法万年とね。
今既にその末法の中に入ってるわけです。
正法(千年)像法(千年)末法(万年)。
だから一万二千年たったら、このお釈迦様の仏教がこの
地上から姿を消す。
つまり誰もお経を信じなくなってくるんですね。
裏を返して言いましたら、もうはや仏教では救われない。
仏教を信じることのできない人たちばっかりになってく
るということです。
これはお経のなかの一説です。
自ら信じ、人を教えて信ぜしむ。ということです。
だから人にお話しするときに、まず自分が信じてもない
のに言うというのは、邪(よこしま)な説法であるとい
うことになりますね。
正しい説法じゃない。
だからお話しするには、まずは自分が信じていなければ
いかん。
と、こういう戒めの言葉があるわけです。
ですからどのお坊さんもそうしてなさってるんでしょう
けれども、聞いているとどうもあのお話しは違うなと、
本当の仏教じゃないぞと、こういうふうに感じることが
あるわけです。
だから皆さんもお聞きになって、あちらでも聞く、こち
らでも本を読まれる。
そしてまた、この和尚さんのお話しをお読みになると、
あの話とこの話と違うなと、いうことが出てくるんじゃ
ないかと思うのです。
和尚さんが生きていたら、ご質問にもお答えして頂ける
のですが、どうかこのお話しを信じてお読み頂ければと
思います。
八万四千法門というのですから、いろんな教えがありま
すね。
奥行きは深いし、間口は広いしね。
或るときお釈迦様が、道をお歩きになっていたときに、
菩提樹の樹が茂っていた。
そのひと枝をお折りになって、そしてその枝を皆に示し
て、「君たちよ、今私が折ったこのひと枝に付いている
この葉っぱと、この大きい樹の葉っぱと、どちらが多い
か」
ということをお尋ねになった。
そうしましたら阿難でしたか、何方でしたか、それはも
う例えになりませんと。
世尊が折られたひと枝の葉の数というのは、数えられま
す。
ところがこの樹に茂っている葉の数というのは、数える
ことができません。
これは何を例えたのかというと、お釈迦さまが覚りを開
いて今日まで説いた法門の、お経の数ですね分かり易く
いいますと。
お経の数を、手に持ってるひと枝の葉の数と仮定するな
らば、まだお釈迦様が説いていない法門が、この樹に残
っている葉のようなものだと。
お釈迦様が説いたものはほんのわずかなものなんだと。
もっともっと私(お釈迦様)の説いていないものがある
んだと。
寿命が足りないというのですね。説ききれない。
そういうふうな例えがあるくらいで、非常に仏教の教えと
いうものの幅が広くて奥行きが深い。
其の人の知ってることが和尚さんは知らない、和尚さんの
知ってることが其の人は知らないということが有り得るの
ですけれども、そういうのを一括して大きな間違いと思う
のは、人生はこの世だけだという前提に立って説く教え。
つまりあの世は無いんだと。
死後の世界というものは無いんだと。
人生はこの一生で終わりなんだと。
だからこの一生を如何に大切に生きるかを教えるのが仏教
だと。
こういうふうに説かれる方があるわけです。
死後の世界が無ければ、如何にしてこの世を生きていくか
というふうなところに着眼して、教えを説くということは
大事であろうとは思いますけどね。
然しながら、一歩譲って死後の世界が有る、というこにな
ってくると、その死後の世界はどうなってこうなってとい
うことになる。それのつもりをして一生を送らんというこ
とになると、死んであの世へ行ったときに、思わぬことが
目の前に現れてくる。
そのときになってしまったらもう遅い。
そういうことだと思うのです。
ですから、和尚さんのお話しの中にはどうしても死後の話
しが出てきます。
そういうことは、和尚さんが勝手に言ってるのじゃない。
何を根拠に言ってるのかというと、一つはやっぱりお経で
すね。
仏教というものは、お釈迦様がここにいらっしゃれば、お
釈迦様にお説き願えばそれで済むことです。ところが現在
はお釈迦様はいらっしゃらない。
そして法然上人や弘法大師のような方もいらっしゃらない。
こうなってくると、幸いにお経が残ってあるのですね。
この仏教は、お釈迦さまが初めて開いたというのじゃない。
この歴史上では釈迦如来という方は、如来という方はたく
さんいらっしゃいますね。
阿弥陀如来。釈迦如来。大日如来。薬師如来。皆さんのご
存じない如来様がたくさんありますね。
お経のなかに出てきますね。
この如来というのは、位なんです。
最高の位を如来というのです。
阿弥陀如来、釈迦如来、そういう如来様は最高の位に到達
した方で、もう是以上は無い。
最高の位に到達した方を皆如来というわけです。
釈迦というのはお名前ですね。薬師というのもお名前です
ね。
いろんな如来様がいらっしゃいますが、その前世ですね、
時間というのは永遠ですから無数の仏様がこの世へ出てく
るわけです。
次から次からこの世へ出て、そして仏教を説く。
そして長い年月の間には廃っていく。
天文学的な数字で時間が過ぎていく、そしてまたこの世へ
出てくる。頃合いを見計らって、今この時期にこの世へ出
てきたらいいという頃を見計らって、人間の姿となって現
れる。
そして仏教を説く。
それがまた、何れ廃る。
亦次の仏さんが出て仏教を説く。
こういうふうになってるもの凄くスケールの大きな宗教な
んです。
その仏様の数は、無数。
それを恒河砂数というのですね、お経の中に出てきます。
阿弥陀経の中にもありますね。
そういうふうに恒河砂数の仏様が過去にいらっしゃるわけ
です。
未来にも次から次から如来様が出てくる。
お釈迦様の次にこの世へ出てくる仏様は、皆さんもご存じ
の弥勒という方ですね。
今は菩薩ですけれども、今から五十六億七千万年後に出て
こられる。
この数字は仏教からいうと割と短い時間なんですよ。
仏教は、「劫」という時間がよく使われますね。
一劫とか十劫とかね。
劫という時間と比べると、五十六億七千万年というのは短
い。
この「劫」という時間はどれくらいの時間なのかという例
えが、一辺が百六十キロの真四角な石があって、その石が、
百年に一度天人が降りてくる。
そう仮定するんですね。
天人が羽衣を着てますね、その羽衣でその石の上をすうっ
と、擦って通る。
百年たつと、また天人が羽衣で石を擦る。
そしてその石が擦り減った。それが一劫だというのです。
だからその数からすると、五十六億七千万年というのは非
常に短い。
その五十六億七千万年後に出て売る如来様が弥勒。
今は弥勒菩薩ですが、次に出てくると如来様と成って出て
来られる。
然しその弥勒で終わるんじゃない。亦次の如来様がどれ位
か時間がたって出てくる。亦時間がたって次の仏様が出て
くる、そしてこの仏教を説くわけです。
そういうことで、一遍現れた仏教は永久というわけではな
いですね。
この現在お釈迦さんの仏教が、約一万年たったら滅びるこ
とになってあるのです。
「末法万年」
お釈迦様が予言してありますね。
末法万年とね。
今既にその末法の中に入ってるわけです。
正法(千年)像法(千年)末法(万年)。
だから一万二千年たったら、このお釈迦様の仏教がこの
地上から姿を消す。
つまり誰もお経を信じなくなってくるんですね。
裏を返して言いましたら、もうはや仏教では救われない。
仏教を信じることのできない人たちばっかりになってく
るということです。
作品名:和尚さんの法話 『自信教人信』 作家名:みわ