入道雲と白い月3
「今の俺には、雛の体験を全部わかってはあげられない。でも、話したくなったら聞くことはできる。不安になったらそう言いなよ。人に話せば、忘れちゃうことはないと思うよ。――それとも、忘れたい?」
「ううん」
瞬時に雛は首を振る。山の狐と神社と巫女。祭りの夜の不思議な神楽。昔話と幻で見た昔の人。それらはすべて、雛にとってはわくわくする楽しいものであっても、忘れてしまっていいものではない。
「忘れたくない」
声に出してみた。それは運動会の選手宣誓のようだと思えた。
この場を離れて家に帰ってしまえば、神社も山も遠くなり、気軽に行くことはできなくなる。そして、その時は迫ってきているのだ。
雛はこぶしを握りしめた。
「忘れないよ。左近さんも、狐の神様も、お祭りの夜も」
顔を上げ、兄に言い放つ。
「そっか」
吉城は一言だけ返すと、視線を前の道に戻す。
「それなら、いいね」
ちりん、と風鈴が一つ音を鳴らした。
道から人通りが絶え、夕日が山に沈むころ、室内から二人を呼ぶ声がした。父が、夕食ができたと兄妹を招いている。
兄妹はそろって立ち上がると、これまでと同じように夕食の献立を言い合いながら、室内へと戻っていった。