入道雲と白い月3
布団の中で目を覚ますと、蝉の声が聞こえた。ジーワジーワと、聞いているだけで汗ばむような音。雛はまどろみながらぼんやりと隣を見る。
二組の布団が敷かれ、それぞれに男の人が寝ていた。しかし雛は少しも慌てず、それどころか安心して再びまどろみ始める。二人が兄と父だとわかっていたためだ。
週が明けた月曜日の昼、非常にくたびれた様子の父と、暑さで顔を真っ赤にした兄が、倒れこむようにこの家に到着した。
もーやだなにこれバス半日に一本とかありえない、バス停からも日陰なしってなんだよ。と父は口だけはよく動いていたが、玄関で荷物とともにうずくまり、祖父から「大きな荷物」と言われていた。
一方兄は祖父母に挨拶をしたほかはしゃべる気力もないようで、ふらふらと荷物を部屋に運び込んでいた。二人とも暑さにすっかりやられてしまったようである。
これじゃあ休みに来たのか疲れに来たのか解らないと、雛は半分心配し、半分呆れていた。父も兄も、この場所にはよく来ている(しかも父は生まれ育った場所だ)のだから、対策くらい取ってくればいいのに、と思ったものだ。
その日は、二人の回復を待ち、歓迎の料理をふるまったり(作ったのは祖母で、雛と祖父は父と兄を介抱したり、荷物を開いたりしていた)互いにおしゃべりをしたりと、家の中で時を過ごした。次の日からは回復した兄とともに、自由研究をこなしたり、近所の人に遊びに連れて行ってもらったり、花火をしたりと楽しく過ごした。けれど、それはほとんど兄とのイベントで、父はというと家でゴロゴロしては、たまにご近所の人と話をするくらいだった。
「父さんって、あんなんだっけ?」
しばらくの出張と自身の田舎暮らしで、父に会うのが久しぶりな雛は、思わずそう訊ねていた。
だいたいあんな感じだったよ、と兄は苦笑いを浮かべながら答える。
「ほら、ここでは注意をする人がいないから、よく目につくんじゃないのかな」
「え?」
一瞬何の事かと思ったが、兄の意味ありげな視線で、すぐに誰のことを言っているのかがわかった。
「ああ、母さんかあ」
ごろごろしている父に、しゃきっとして! 手伝って! とはっぱをかけている母の姿が浮かんでくる。そういえば母にも結構会っていない。仕事が終わるのはいつ頃だったかと、生家に思いをはせる。
田舎の夕暮れは弱い風が吹き、風鈴をわずかにゆすっている。雛と兄吉城は縁側に腰掛け、たまに通る家に帰るだろう人々を見るともなしに見ていた。
「そろそろ母さんも戻ってくるから、もうすぐ帰ることになるね」
ふいにしみじみと、どこか残念そうに兄が言うので、雛は首をかしげた。
「そうだけど――何かやり残したことでもあるの?」
行って見上げると、困ったような笑みとぶつかった。
「雛の話を確かめられなかったな、と思ってさ」
「わたしの話?」
「うん。神様デビューしたって言ってたじゃない。翔ちゃんに話そうかと思ったんだけど、俺が見てないんじゃ、信じてもらえないだろうなあ・・・・・・」
雛はきょと、と目を瞬いたが、すぐにああ、と手を打つ。神様を見た、という話を兄にしていたことを思い出したのだ。
お祭りの日から何かと忙しく、雛は神社を訪れていない。もちろん左近にも、狐さんにも会ってはいないのだ。忘れていたわけではないのだけれど、随分と前のことのように思える。
兄に話をしたことは確かだが、それがここまで気にかけられているとは、思っていなかったこともあった。
そしてもう一つ、思い浮かんだことがある。兄の言葉の中に出てきた「翔ちゃん」のことだ。
「翔ちゃん」は二人にとっての幼馴染で、もの知りのお兄さんなのだが、超常現象というものを、一切信じない人なのである。雛は、よくわからないことや疑問に思ったことなどをことあるごとに訊いていたのだが「あの人はどうして透けてるの?」や、「もうすぐ雨が降るって、この木が言ってたよ」などというと、彼は普段の不愛想さにさらに磨きをかけ、薄く笑うのである。
この時ばかりは、雛はこの「お兄さん」を好きにはなれなかった。
そんな幼なじみのことを思い出し、今頃何しているかな、と考える。高校生の「翔ちゃん」は、雛たちよりずっと忙しくしていることだろうが、雛にはそんなことは解らない。しばらく思いを巡らせてから、兄に視線を向けた。
「でも、わたしもちゃんと神様に会ってはいないの。まだね。お祭りの時に色々やって、うまくいった気がするんだけど、今はどうなってるのかなあ」
「何それ?」
今度は兄が目を瞬いて、くすりと笑う。
「人ごと見たいに言うね。まあ、雛自身のことでないのは確かだけど」
「・・・・・・うん、そうかも」
雛は視線を兄から地面に向ける。そうして、ぼそぼそ独り言のようにしゃべりだした。
「なんかね、本当にあったことじゃないみたいになってきてる。左近さんも狐さんもあの山も神社もちゃんとあるし、いるけど、わたしも一緒になって神楽の手伝いとかしたけど・・・・・・なーんか嘘みたいというか」
「現実味がない?」
「うん。そんな感じ」
眉を下げ、雛は少し笑う。笑ってから、そうすることがいけないことのような気がして、すぐに口元を引き締めた。
「でも、本当にあったんだよ。今も神社には左近さんがいるはず。そりゃ幻もいっぱい見たけど、幻を見たことは本当だもん」
「幻? 幻で神様を見たの?」
「違う。神様はきちんと見てなくて、それかなって思うのを、ちらっと見ただけ。幻ははっきり見たの。今でも覚えてる。左近さんは、昔の人たちだって言ってた」
「昔の人・・・・・・」
「そう。神様になる前の、人間だったころの神様たちのことを、幻で見たの」
ここで吉城はしばらく目を瞬いていた。やがてへえ、と感嘆する。
「なんか・・・・・・すごいな雛。思ってもなかったとこまで行っちゃってる感じだね。こりゃ絶対、信じそうもないな・・・・・・」
「兄さんも、信じられない?」
少し不安になり、雛が問うと、吉城は微笑みながら首をかしげた。
「雛が嘘をついているとは思わない。そういう意味では信じてるよ。でも、雛が見たものが、本当にそこに存在していたかどうかは、俺にはわからない」
「そう、だね・・・・・・」
突き放されたような気分で、しょんぼりとうつむく、自分が見聞きしたものを、証明する術は何もない。他の人とは共有ができない。兄のことはいい人だとは思っているけれど、こういう時はいつもよりも遠ざかってしまっている気がして、少し怖かった。
そんなことを思っていると、不意に兄がポンポン、と肩を叩いて来る。優しいしぐさに振り向くと、にっこりとした顔が、目に飛び込んできた。
「でもさ、いい経験したと思うよ、雛は」
嬉しそうに、吉城は雛を見下ろす。
「本当か嘘か、それも大切かもしれないけど、もっと大切なのは、それを雛が体験したってこと。他の人には誰にも出来ないことだから、嘘かもしれないからって、粗末にしちゃいけないと思う」
ぽかん、と雛は兄を見返した。彼は変わらず笑っている。