入道雲と白い月3
心を沸き立たせながら、左近を振り返る。狐の存在を伝えようとして、雛は再び息を飲んだ。
左近は雛を見ていない。そして、狐にも目を向けていない。そんな彼女に、ひとりの女性の影が重なって見えた。――それは、雛が幻で何度も見た、背の高い黒髪の女の人だった。姿かたちは、実際に左近と重なっているためか、区別がつかないほどよく似ている。
舞う左近は、自然な動作で舞台の隅へと歩いて行き、御幣を下に置くと、今度は鈴を手に取った。太い棒の上部に三段に分けられて、円錐形に鈴がつけられている。一つ一つの鈴は小さいけれど、たがいに響きあっているため、降るたびに、りいぃぃぃんと、遠くまで届く音が広がった。笛と、そのほかの楽器の音に、しっくりとなじむ。
鈴の音とともに、左近の表情が動いた。視線は狐が現れた方を向いている。
――その先には、赤い髪をした美しい男の人が立っていた。
えっ、と雛は目を瞬き、そして擦る。先ほどまで、この場には雛と左近の二人しかいなかったはずだ。けれども見間違いではなく、男の人は確かにここにいる。しかも、彼はどう見ても普通の人ではなかった。夜の山にひとりでいるからでも、浴衣ではない着物を着ているからでもない。その姿が、うっすらと透けているのだ。
いつもの幻のようにも思えたけれど、何かが違う。赤毛の男の人と左近に重なる女の人は、確かに幻で見た人だろうと思えたが、今は何となく、現実味があるように感じる。手を伸ばせば触れられそうな気さえした。
しかし雛は手を伸ばさなかった。――伸ばせなかった、というのが正しい。
男の人は左近をじっと見ている。その瞳はほんの少しだけ細められて、目じりは緩やかに下がっている。口元も、はっきりとわかるほどではないが、柔らかくほころんでいるようだった。
一瞬たりとも眼を離さない、と全身で言っているようで、近づくことすらためらわれる。
一方、左近と幻の女の人も、もちろん神楽に集中しているため、近づくことはできない。仕方なく、雛はそのままその場に座り続けた。
そのうちおや、と気付く。左近が時折笑みを浮かべるのだ。ほんの一瞬だが、それはそれは嬉しそうに。すぐに元の真剣な表情に戻る分、その笑顔はやけに目に留まった。
なんだろうと思い、注意して見ていると、すぐに気付く。左近は、男の人が目に入るとその度に微笑んでいたのだ。
(――ああ、もう、大丈夫)
すうっと、まるで天から降りてきたかのように、雛はそんなことを思った。この神楽はうまくいった。神と巫女である左近は、つながることができたのだ。
雛はにこにこと笑い始める。少女の目には、ひとつまたひとつと、うっすらとした人影が見え始めていた。ひとりは太鼓、ひとりは笛、そして笙と呼ばれる細い筒を長短何本も束ねた楽器や、卵を縦半分に割ったような形の琵琶という弦楽器を抱える者の姿もある。
けれども、雛はもう驚かなかった。優しい音楽と舞い、暖かい笑顔とまなざしに包まれて、この上もなく幸せだった。
ひらり、ひらりと衣が舞う。りぃぃん・・・・・・という鈴の音が、夜の闇に響き渡っていった。