入道雲と白い月3
「舞えそう? それならいいや。でも、狐さんいなかったね。ここのは見に来ないのかな」
「・・・・・・さて、どうかな」
「これからどうするの?」
刹那、前だけを見ていた顔が、ようやく雛を見下ろした。少し間をおいてにこりと笑う。
「がんばらないとな」
「えっ・・・・・・あ、うん。そうだね」
応えると、左近は踵を返してその場を歩きだした。雛も慌てて続く。
「神社に戻るの?」
小走りに横に並ぶと、左近は視線だけを向けてくる。
「ああ」
「もう舞うの? わたしも行っていいの?」
問うと、しばらく考えるように首をかしげてから、頷きが返ってくる。
「ああ、大丈夫」
それから二人は、明るい祭り会場を抜け、神社へと向かった。雛はまだ屋台に未練があったが、ぐっとこらえる。どうせあとに残るものは、荷物になるので買えはしないのだし、こちらの方が大切だという思いがあったからだ。
というのも、左近の様子がいつもと違うのだ。怒っているかのように真剣な表情で、まとう空気でさえ固く張り詰めているような気がする。
雛は緊張していた。しかしそれは、嫌な気分ではなく、この先には見知らぬものがあると思わせるようなもので、好奇心が揺さぶられていた。気付くと、雛もしゃんと背筋を伸ばし、あたりをはばかるようなゆっくりとした歩みで、山道を進んでいた。
それはまるで、神事に向かう巫女とその従者のようで、二人は厳粛な雰囲気で神社を目指す。灯りの乏しい暗い道のりであるにもかかわらず、迷いのない足取りだった。
雛はふわふわとした、不思議な気分に陥っていた。見慣れた場所を歩いているはずなのに、辺りの景色が初めて見るもののように思える。それだけでなく、空気のにおい、風の音、すべてが懐かしいようで新しい。
まるで幻を見ているの時のようだった。雛はふと口を開く。
「前もこうして歩いてた?」
幻で見た女性と、左近の姿を重ねてみる。まるで同じ人物であるかのように、その姿はしっくりとなじんだ。
「そうだな。あの方といっしょによく歩いた。楽しい時ばかりじゃなかったけどな」
振り返りもしない後ろ姿から、静かな答えが降る。
「逃げる、追いかける、仕事に行く、かけ戻る・・・・・・たまに散歩する。どれもこれも覚えている。決して忘れられない、大切な思い出だ」
なつかしむような声色で左近は言う。その声に、雛は何となく胸がもやもやとした。思い出? と心の中で首をかしげる。
「・・・・・・また、歩けるよ」
前を歩く人にきちんと届くよう、その背に向かって真っすぐに声を張った。
「歩こうよ。そのために舞うんでしょ? 左近さんは、ひとりでいちゃいけない。神様と一緒にいなきゃいけない。だって巫女さんだもん」
「・・・・・・そうだな」
背は、後ろを振り返ることなく、けれどしっかりとした口調で言葉を返してきた。
神社に着くと、左近は無言のまま雛を庭の一角へといざなった。雛も無言のままそれに従う。
神社は月と星の照らす闇夜の中にあったが、縁側に灯された明かりが、わずかに辺りを照らしている。いつもと違う、幻想的な雰囲気が辺りに漂っていた。
「――」
何かを言いたくて、けれど言葉が出てこない。左近は支度を始めていた。それを眺めていると、傍らにひじかけと座布団のようなものを見つけた。邪魔にならないようにゆっくりとそちらへ進み、腰を下ろす。
舞台は、古くからあるようなもので、屋根のついた造りだったが、雛はこれまでに、このような建物を神社で目にしたことはなかった。けれど隅々まで見まわったわけではないので、単に見つけられなかっただけだろうと思う。
ぼんやりとそんなことを考えていると、いつの間にか左近は袴姿になっていた。それはいつもと同じものだったが、白い着物の上にもう一枚、色鮮やかな上着を羽織っている。さらに頭には、かんむりのようなものをかぶっていた。
「きれい・・・・・・」
自然に口から出た褒め言葉は、左近の耳にも届いたようで、ちらりと雛に視線が向く。一瞬だけ小さく微笑むと、すぐに真剣な表情での身支度に戻った。
雛の頬にかすかな風があたる。夏の夜特有の湿気を含んだ生ぬるいもので、近くの木々の緑のにおいが鼻をくすぐった。
ここ最近毎日嗅ぐにおいだったが、本来の雛にはなじみのないものだった。都会の家に戻れば、そこにはコンクリートと埃のにおい、あとは人工的に作られた草や木のにおいがある。
外から感じるにおいはそんなところだったが、雛の住む竹中家には、他にも特有のにおいがあった。家のにおいではない。病気がちの父がよく飲んでいる薬のにおいだ。その薬は、風邪をひいた時に雛や兄吉城も、よく飲まされたものだった。
ふと、脳裏に父の声がよみがえる。
――信頼は、相手に何かをゆだねるということ。責任は、ゆだねられたことを受けて、果たそうと頑張ること――
確か、何か頼まれごとをした時のことだったろうか。取るに足らないことで、内容は覚えていない。けれどそんなことを言われた、ということは覚えていた。信頼も責任も、相手がいないと成り立たないことなんだよ、と。
父が何を言わんとして、子供の雛にそんなことを言ったのか、いまだもって解らない。そして何より、当時は聞き流し、今の今まで忘れていたことを、どうして急に思い出したのかと思った。
(家が恋しいのかな?)
心の中の呟きに、自分自身で首をかしげる。とてもそんな気はしない。もうすぐ兄と父も来る予定だし、祖父母は優しく、左近という友人もできた。家に帰りたいと切望する理由は一つもない。
身支度をすませたらしい左近が、ゆっくりと移動し始めた。庭と雛に体の側面を向けて立ち止まると、何かの姿勢を取る。手に持った、菱形の紙が連なって垂れ下がっている木の棒――御幣――を横向きにして両手で持ち、頭の辺りで掲げるように上にあげ、気持ち頭を下げる。
気付くと、どこからか小さく太鼓の音が聞こえてきた。それに合わせて、左近は構えを説くと動き出す。高い笛の音もかぶさる。長くゆっくりと高低に動く音は、夜にもかかわらず少しもうるさく感じない。染みこむように雛の中に入っていく。
笛、太鼓に合わせ、まるですべてが一つにつながっているかのように、左近は舞い始めた。
太鼓の音とともにトンッ、と足を踏み出したかと思えば、ばさりと御幣を振り風を作る。上着の袖がひらりと舞い、御幣を追う。笛の音が響けば流れるような動きを見せ、足音が消える。御幣は相変わらず翻るも、水のようになめらかに動く。
笛の他にも、音程を持った楽器が加わったのはいつからだったろうか。雛にはその音が、なんという楽器から出されているものなのか解らなかった。ただ、村祭りで見た神楽とはずいぶん違うなと気付く。
その曲は、音楽の授業や正月のテレビから流れる雅楽の音に似ていて、随分と古いもののような印象が残った。
かさり、と草を踏むような音がする。
雛は一瞬、舞台から庭へと目を移した。そして、息を吞む。
神社を囲む高い木々の根元には、狐がいた。夜の闇の中ということと、自身の不確かな記憶との比較であるため、断言はできなかったが、その赤茶の毛皮には見覚えがある。
神様の狐だ。
(来た! 来た!)