入道雲と白い月
「本当のことを教えてあげる」
鼻をすすり、左近は照れ臭そうに言った。
裏庭での出来事の後、左近は雛を室内にあげ、飲み物を持ってきてくれた。のどを乾かしていた雛は遠慮なく手を伸ばす。飲み物は冷たくて、気持ちよく飲みほしてしまう。
左近が唐突にそんなことを言ったのは、コップにお代りを注いでいるときだった。雛はコップに伸ばした手を止め、目を見張る。
「何を?」
今日は驚いてばかりだ、と思っていると、左近がかすかに笑う。
「狐と神社について」
雛は瞬いた。
「ウソついてたの?」
左近が首を振る。
「いいや。ただ、言っていないことがたくさんあっただけだ。言わなくてもいいことだからと黙っていたんだが、どうも雛は、いろいろと知ってしまうたちらしい。厄介なことになる前に、伝えといた方がいいかな、と思ってさ」
「タチ?」
妙に頭に引っ掛かった言葉を繰り返す。なぜか胸が奇妙に落ち着かない。
「そう。狐や、昔の人の姿を見たりしている。そういうのは、見えない人には全く見えない。この神社だって、気付かない人は村人だって気付かない。何十年と住んでいてもな。・・・・・・雛は、そういうものを見つけるのがうまいんだよ」
左近は頬笑みを浮かべながらゆっくりと言う。そういう風に伝えられれば、ざわざわが少し落ち着いた。
「だから、黙っててもきっと、ここの秘密に辿り着くと思ってさ――ま、秘密ってほど大したことじゃないんだけど」
雛はじっと左近を見た。気を持たされているようで、先が聞きたくて仕方がない。
「何なの? あの二人と狐に、何かあるの?」
「ああ。そうだな・・・・・・」
何から話すか、とひとりごとのように言う。雛はせかすように口を開いた。
「狐がいるんだよね、この山に。わたしが見た狐なの?」
「ああ。私がこの目で見たわけじゃないから、断言はできないが、おそらく雛が見たのは“使いの狐”だろう。この山にいる動物は、めったに人前には出てこない。私もずいぶん長くいるけど、鳥くらいしか見たことがないからな」
「じゃあ、狐はどうして出てくるの? ・・・・・・木村のおじいちゃんは、使いの狐は仕える神様を探してるって言ってたけど、だからなの?」
「うーん・・・・・・。そういうことになってる、のか」
左近は苦笑いを浮かべながら首をかしげた。まるで、小さな子供のほほえましい間違いを見つけた人のようだと、雛は思った。
「違うの?」
「まあ、正しくはないな。でも、だからってあえて直すほどのことでもない。誤解されても、あの人はいつものことだ、と捨て置くだろうからな」
「あの人?」
ぱちぱちと目を瞬く雛の前で、左近はゆっくり言葉を紡ぐ。
「あの狐はな、本当は〈使い〉なんかじゃない。神そのものなんだよ。この神社で祀っているな」
「は・・・・・・?」
「狐って生き物は、大体の神社では使いだけど、うちでは主だ。そして私はその神に使える巫女・・・・・・なんだよな、一応」
他人事のように言い、小さくため息をつく。
「狐の姿をしているとはいえ、あの方は神だから、めったに人前には姿をお見せにならない。というか、見えないやつは目の前にいたって見えない。・・・・・・そして、神が姿を見られたくないと思われたら、いくら見つけようとしても人間には見つけることができない。・・・・・・今、うちの神様は見つけられたくないと思っているとこなのさ。だから、私もしばらく会えていない」
お仕えする巫女なのになあ、と呟いて首をすくめる。
「けど、雛はあの方を見た。ということは、あの方が君に興味を持っているということだ。理由は解らないけど、ひとつ思いつくことはある」
「なぁに?」
「君が若い女の子だということだ。そういう存在の前には、あの方々は姿を見せることが多い。・・・・・・私があの方に会ったのも、若い頃だったしな」
「あの方々? 他にも神様がいるの?」
きょろきょろとあたりを見回すと、左近は小さく声を立てて笑った。
「ここにはいない。でもこの国にはたくさんの神様がいるんだ――ヤオヨロズって知ってるか?」
「八百屋さんのこと?」
「違う、違う!」
噴き出すように左近は言った。
「ヤオヨロズ、は八百万、と書く。平たく言えはそのくらいたくさんって意味だ。この国の神様は八百万の神と呼ばれている。たくさんいるって言ってるんだよ」
「へえ・・・・・・あ、そうか。お地蔵さんや道祖神さんはあちこちにあるもんね。あれも神様なんだよなぁ」
「うーん・・・・・・お地蔵さんは仏だから、この国の神とはちょっと違うんだけど・・・・・・」
「そうなの? どう違うの?」
首をかしげると、左近は考え込むように腕を組む。その姿を注視していた雛だったが、すぐに我に返った。
「あ、その話じゃないんだ。それより、さっき見た二人が何なのか知りたい。左近さんが知ってる人? なの?」
言うと、左近はわずかに視線を泳がせた。遠くを見ているふうではなく、焦っている人がごまかそうとしているときによく見せるしぐさだ。どうして、と心の中で首をかしげる。
「さっき、あの二人を昔の人だって言ってたよね?」
「・・・・・・ああ。鎧を着た人なんて、今の世にはそういない。いたとしてもこの厚い盛りに外でなんか着るのは、よっぽどの事情があるかおかしな連中だ。――そんな感じだったか?」
言われて、山道での二人を思い返す。雛には目もくれていなかったが、おかしな人、という感じはなかった。黙って首を振る。
「なら、その人たちは、もうこの世にはいない人だ。消えてしまったんだろう? 雛が見たのは、その人たちが生きていたころの再現――幻みたいなもんだ」
「ゆ、幽霊ってこと?」
背筋に走った寒気に声を震わせながら、雛が聞く。左近は軽く首をかしげた。
「そうなんじゃないかな? でも、怖がることはない。その人たちは雛を見なかったんだろ? だったら何も出来はしないよ。だってその人たちにとって、雛は存在しない人なんだから」
そう言われて、少しだけ眉間にしわを寄せて考えてみる。やがておずおずと左近を見返し、そこに確信のある笑みを見つけて、ようやく小さく頷いた。
「それで・・・・・・あの人たちは誰なの? 左近さんに似てる人もいたけど、ひょっとしてご先祖様?」
「・・・・・・うーん、そうかもしれない。けどまあ、今ここではっきり言えるのは、彼女と一緒にいた赤毛の男が、今は狐の神様になってるってことだけだな」
「えっ」
雛は眼を見開き左近を見る。巫女は小さな笑みを浮かべながら頷いた。おそるおそる問いかける。
「あの人が、神様? 人から神様になったってことなの? どうして?」
「・・・・・・さあ? 人がどうして人として生まれるかがわからないように、神様が生まれる理由もわからない」
「じゃあどうして、左近さんは知ってるの? あの狐が神様で、私が見た赤毛の男の人だって」
左近はひどく困ったような顔をした。しかし口元は笑っているので受ける印象は柔らかく、仕方がないなあと思っているかのようだった。
「元々は、狐の姿じゃなかったからだよ、あの人は」
再び遠くを見るようにしながら話している。