入道雲と白い月
ただ、ギラギラと輝く太陽を見上げ、早く今の暑さをどうにかしてほしい、と思いながら歩くだけだった。
人に会うこともなく(暑いので、みな外には出ないのだろう)、どうにか山まで辿り着いた雛は、日陰に入れたことで、ようやくほっと息をつく。無意識に曲げていた背筋が伸び、いくらか体に力が戻った。
(神社に着いたら、お水をもらおう。井戸の水はぬるくない)
そう気合いを入れて、山道へと足を踏み出す。家の水道水はここ数日ですっかりぬるくなってしまっていたが、神社のポンプ式の井戸の水は、いつも冷たく心地よかった。それがうらやましい、と左近に言うと、彼女は軽く眉を寄せて「冬は大変だよ。手が凍る」と言って苦笑いしていた。
凍ると言われても、夏の暑い日に冬を思うことは難しい。むしろ今なら凍りたい――などと考えていた雛の顔に、ふと冷たい風が吹き付けた。
きょとん、と前に続く道を見つめる。周りの空気は暑いままで、それを増幅させるような蝉の音も途切れていない。一体この風はどこからくるのだろう、と首をかしげる。
しばらくそこで瞬いていると、遠く、山の木々の奥から二つの人影が現れた。
「早くこちらへっ! 急いでください!」
人影のうち一人、体の大きい方が、そう声を上げる。その人は、後ろを向いているために、顔が見えない。長い黒髪が肩にかかっている。
呼び掛けに応えるように、もう一つの人影が、黒髪の人の傍らに寄ってきた。そちらの方は、赤い髪ときれいな表情をした男の人で、この暑いのになぜかとても厚着をしている。
――違う、厚着じゃない。
雛はすぐに気付き、そして寒気が走った。二人は武者のような鎧をまとい、刀にしか見えない長い棒のようなものを持っていたのだ。服を重ねているように見えたのは鎧の厚みだ。日の光を受けて、刀のつばや鎧の金属部分がきらりと光る。
二人は、目を丸くして固まる雛には目もくれず、まっすぐ山を下りてくる。このままではぶつかる、とわかっていたが、なぜか足は一向に動かなかった。
どうして、と焦るうち、二人はみるみる近づいてくる。どうすることもできず、せめてぶつかる衝撃を和らげようと、頭を抱えて目をつぶった。
そして再び、冷たい風が吹き過ぎる。
ふと気付くと、雛の耳に、ミーンミーンという蝉の音が聞こえていた。
そっと目を開けると、そこにはいつもとなんら変わらない、蒸し暑い山の景色がある。
「な、に・・・・・・?」
呟いて目を瞬く。振り返ってみても、先ほどまでいたはずの二人の姿はなかった。
「??」
狐につままれたような気分で、雛はしきりに首をかしげる。そして、もしかしたら本当に狐に化かされたのかもしれない、と思い至った。この山には、神の使いの狐がいるらしいのだから。
(そうなのかなあ? だとしても、あの二人って誰だったんだろう)
何となくもやもやしてものを抱えながらも、雛は歩き出す。不思議な出来事にたったひとりで出会った直後でも、その歩みはいつもと変わりがなかった。
それは、夏の暑さでぼうっとしているためであり、また実際には何ら怖い目を見ていないせいもある。雛にしてみれば、見知らぬ人とぶつかりそうになった、というくらいの衝撃しか感じていないのだ。
蝉の声と一緒に林を抜け、涼しげな神社に辿り着く。暑さのためか、境内に左近の姿はなかった。拝殿を覗き誰もいないのを確認すると、雛は裏手に回る。
神社の裏手には、室内に入るための木戸が一つだけある。そこに左近がいた。声をかけようと近づくと、左近は不意に髪をほどき、縛り直すしぐさを見せた。
(え)
ぽかん、と雛は目を見張る。すると、手早く髪を直した左近が、少女に気がついた。
「よう。今日も来たのか。暑かったろ、飲み物でもどうだ?」
いつものように明るくかけられた声に、雛は応えたかったのだが、それよりも先に、伝えたいことができてしまった。ゆっくりと、恐れるように口を開く。
「・・・・・・さっき見たのは、左近さん? 鎧着て、赤い髪の人とこの山を下りてた?」
言ってから、まさか、と胸の内で声があがる。不思議な二人組を見た場所からここまで、こんなにも早く来られるはずがない。たとえ来られたとしても、鎧を着替える時間はないはずだ。
しかし、それでもなお雛は、聞かずにはいられなかった。二人のうち、体の大きいほうの人の後ろ姿は、髪を下ろした左近とあまりも似ていたのだから。
「・・・・・・なんだって?」
笑い飛ばされると思っていた雛にかけられた左近の声は、低く、怖いくらいに真剣なものだった。思わず雛は目を見張る。
「あの・・・・・・さっき、ここに来る途中でね・・・・・・」
戸惑いながらも、先ほど見たものを正直に話す。最後に、一人が左近に似ていたということも伝えた。
「だから、ひょっとしたら左近さんかなあ、と思ったんだけど・・・・・・違う、よね?」
「――ああ。私はずっと、ここにいた」
「だよね。・・・・・・あのさ、わたし、この山には神様の使いの狐がいるって話を聞いたの。だから、狐に化かされたのかなーって思って」
「使いの狐?」
きょとん、と左近が目を瞬く。
「うん、そういうのがこの山に入るって。わたしが山で動物を見たって言ったら、教えてくれた」
「・・・・・・竹中さんにか?」
おそるおそる聞く左近を不思議に思いながら、雛は首を振って見せる。
「ううん、近所の人。昔語り辺から聞いたんだって」
それを聞くと、左近は大きく長いため息をついた。まるで、これまでためていた息を一気に吐き出したかのようだった。
「そうか、語り辺か・・・・・・まだいたんだな、そんな人」
「ううん。いまはもういないって言ってた。木村のおじいちゃんが聞いたのは、子供のころだって」
言ってからふと、小さな首をかしげる。
「左近さん、語り辺なんてよく知ってるね。わたし聞いたこともなかったのに」
「ああ・・・・・・」
「その使いの狐さんはね、この山の神様に仕えてるんだって。それってこの神社の神様? 何の神様がいるの?」
ふいにくしゃり、と顔をゆがませ、左近はうつむいた。まるで、泣く直前のような表情に、雛はぎょっと目をむく。
「え、あの、なに? どうしたの? わたしのせい?」
左近は答えなかった。ただ、少し待って、とでも言うように片手を上げると、逆の手で口元を覆う。
「そっか・・・・・・そうか・・・・・・」
呟く声はとても小さく、震えてかすれていた。