入道雲と白い月
じっとりとした暑さと、よく響く蝉の声の中、雛は目を覚ました。ぼんやりとした意識の中に、ミーン、ミーン、ジジジジ、ジーワ、ジーワ、と数種類の音色が飛び込んでくる。
ううっ、とうめきながら寝返りをうつ。湿った体に、服や布団や髪が張り付いて気持ち悪く感じたが、まだ体は起きようとはしなかった。眠いのではなく、完全に目覚めていないので、体に力が入らないのだ。
ぼんやりと、午前中のことを思い出す。
(左近さんの所に行って、お菓子をもらったんだよね・・・・・・。自由研究ですることを決めて・・・・・・何の動物を調べよう)
狐、という単語が浮かぶ。思いついてしまうと、それがいいような気がしてきた。起きたら本を見つけに行こうか、と考えていると、聞き慣れた足音が近づいてきた。縁側から、祖母が顔をのぞかせる。
「あれ、雛ちゃん起きてたの。今、おやつにしようと思ってたんだけど、食べるかい?」
「・・・・・・う、ん」
呟くように答え、重く感じられる体をどうにか起こす。汗を含んだ髪が顔に垂れてきて、うっとうしい。乱暴に払っていると、祖母が笑みを含んだ声で言う。
「おやおや。お昼寝してもご機嫌斜めみたいだね。水浴びてさっぱりしといで。今日のおやつはスイカだよ」
「うん・・・・・・」
スイカ、という単語に少し気持ちが上向く。その勢いも借りてどうにか起き上がると、祖母に言われたとおり、風呂場へと向かった。
身なりをさっぱりと整え居間に行くと、すでにスイカが用意され、いくつかは皮になっていた。驚いたことに、居間には祖父母だけでなく、何人かの村人がそろい、スイカをぱくついてる。
「やあ雛ちゃん、早くおいで。スイカなくなっちまうよ」
目が点になったような心地で立ちすくんでいた雛だったが、祖父の手招きで我に返り、祖父の傍らに近づく。
「おう、みんな。これがうちの孫娘の雛ちゃんだ。雛ちゃん。この人らはご近所さん。スイカをおすそ分けしに来てくれたんだよ。お礼言いな」
「あ、はじめまして。・・・・・・スイカ、ありがとうございました」
数人の老人、父母と同じ世代くらいの男女に見つめられる中、雛はぺこんと頭を下げる。すると、こんにちわ、やどうもー、などといった返事が返ってきた。さらには、かわいい子だねえ、と頭をなでてくる者も出た。
「ところで竹爺さん。ひょっとして山で動物見たってのは、この子か?」
縁側で、片手に持ったスイカをしゃぶっていた一人の老人が、祖父に声をかけた。老人とはいっても、よく日に焼け、背筋はしゃんと伸び、腕にはしっかりと筋肉がついている、という元気がよさそうな人だった。雛でなく、兄の吉城ならば、老人とは思わなかったかもしれない。
祖父は、おう、と気さくに応じた。
「そうだとも。な、雛ちゃん。あそこの山で、獣見たんだよな」
「う、うん」
山のある方向を指差した祖父に、雛はためらいながらも頷く。
「でも、はっきり見たわけじゃないよ。茶色い毛が見えたってだけで・・・・・・」
「茶色? ってことは狐か。やっぱあそこにゃいたんだな、使いの狐が」
老人の言葉に驚いて、雛は顔を上げる。まじまじと目を見張っていると、老人は面白そうな表情を向けてきた。
「ん、なんだ。興味あるか?」
「使いの狐って、なに?」
答えずに問い返すと、祖父がこら、と叱るような顔をした。失礼な言い方だったかな、とちらりと首をすくめたけれど、目の前の老人に気にするそぶりはなく話を始めたので、雛はせめてと神妙に耳を傾けることにした。
「――ここいらの昔話さ。あの山の神社には、神の使いの狐がいるってな。その狐は、自分が仕える神さんを探してるって話だ。だから常に一匹だけで、長いこと生きてるって話だぜ」
「神様を探してる? 神社にいるんじゃないの?」
「神社は、神さんが下りてくる場所だ。常にそこにいるわけじゃねえ。人間が祭りをして神さんを呼んで、面白おかしく騒げば、神さんもいい気分になって、この村を守ってくれるって寸法さ」
「ずいぶん詳しいやね、木村さん」
祖父が言葉を挟んでくる。ふと見ると、縁側にいた人々は、みな老人の話に耳を傾けているようだった。木村さん、と呼ばれた老人は、照れたように小さく笑う。
「詳しかねえよ。俺が知ってんのはこんくらいだ。ばあさんならもっと色々知ってんだろうけどな」
「ああ、清さんは村の語り部だったからねえ。懐かしいわ。アタシも小さい頃、いろいろ話を聞かせてもらったもんだよ」
祖母と同い年くらいに見える老婆が、柔らかく目を細め、遠くを見ながら言った。すると、他の面々も、どこか懐かしそうに互いに顔を見合わせたり、ぼんやりと遠くを見たりし始めた。
そこに、新しいスイカの乗った盆を持って、祖母が姿を現す。皮だけになったスイカを片付ける祖母に、雛はそっと問いかけた。
「おばあちゃん、語り辺って何?」
「え? ああ、うーん・・・・・・昔からの言い伝えとかに詳しい人、っていえばいいのかねえ? うん、大体そんな意味」
「今もいるの? そういう人」
「今はいないね。もう、昔話をする場もなくなっちゃったし」
「場?」
雛が首をかしげると、木村のおじいさんが口を挟んできた。
「語り辺が昔語りをするのは、大抵祭りの席でだったからな。最近はそんな昔話より、テレビなりなんなりの方が面白いんだろうよ。子供は見向きもしねえ。そんで、いつの間にやらなくなっちまったのさ」
「・・・・・・そっかあ。残念だね」
軽く落胆しながらも雛は、これまでだったらわたしもテレビか漫画だったろうな、と思う。心にチクリとしたものが走り、なんだか申し訳なくなった。
今は心から、その昔話を聞いてみたい、と思っているのだ。
「おやまあ、雛ちゃんは昔話聞きたかったかい」
雛の声に含まれた落胆に気付いたのだろう、近所のおばさんが、少しだけ嬉しそうにそう言ってくる。他にも口々に、うれしそうな珍しそうな声で、村人たちは雛を慰めた。
それを雛は困ったような顔で受ける。なにせ、彼女が気になったのは神社の神様に関することだけだったのだから。
「こんな若い子でも、昔に興味を持ってくれてるんだ。まだまだ世の中捨てたもんじゃないねえ」
にこにこと誇らしげに笑う祖母に、雛は無言で小さく首をすくめていた。恥ずかしがっていると思われればいい、とこっそり思いながら。
翌朝は、早くから気温が高かった。
いつも以上にぐだぐだと布団と仲良くしていた雛だったが、それでも外には出かける。家にいるよりも、山の神社の方が涼しいだろうと思ったためだった。
どうして祖父母はいつも通りにしていられるのか、とむしむしする空気に足をとられるような気分で進みながら、ぼんやりと思う。二人とも汗はかいているし、うちわや扇風機を使ってはいるが、どちらも雛のようにぐったりとはしていない。暑い暑いと言いながらも、いつものことだとばかりに流していた。
それは、この村で育った祖父母と、都会育ちの雛との慣れの差、そして何より体の丈夫さの違いから来ているらしい。だがそう言われて、あきらめろと諭されたとして、雛には何の救いもない。