入道雲と白い月
翌日、再び『大森神社』に雛は来ていた。昨日、左近に送ってもらったことも幸いして、時折迷いながらも、道を大きく外れることもなく、神社に着くことができた。
左近は、雛を歓迎してくれた。お菓子と麦茶を出してくれる。
「お祭り?」
茶飲み話に、昨夜祖父母から聞いた話を披露すると、左近は首をかしげた。
「知らなかった? 神楽があるって聞いたから、左近さんが踊るのかと、思ったんだけど」
「いや・・・・・・」
左近は困ったように笑っている。その表情を見て、そういえば、この神社には、お祭りの準備らしきものはされていないな、と気付く。週末に催されるのならば、今から飾りなどがされていてもおかしくはないはずだ。
「左近さんは出ないんだ。昔はやってたって聞いたけど、もう踊りはやめちゃったの?」
「ええと、それは・・・・・・・」
苦笑いをしながら首をかしげ続ける左近だったが、嫌がっている様子ではない。単に、どう言ったらいいかと迷っているように見えた。
雛は麦茶をすすりながら、巫女の言葉を待つ。
「――つまりねえ、私は雇われ巫女なんだよ。アルバイト的な・・・・・・」
「アルバイト?」
「っていうのもおかしいか・・・・・・。私は、この神社を預かってはいるけど、持ち主は他にいるんだよ。ただ、その人たちがここには来られないから、私が来てるってだけでね」
雛はきょとんと瞬く。左近は優しい笑みを浮かべていた。
「わかるか?」
「・・・・・・うん、まあ。え、けどじゃあ、その元の持ち主の人に言われなかったの、お祭りのこと」
「あー・・・・・・どうだったかな」
首をひねると、白い着物の上を、黒髪が滑り落ちていく。後ろにまとめた髪からほつれた横髪が、肩にかかってつややかに輝いていた。雛は一瞬、その輝きに目を奪われる。
左近が口を開いた。
「・・・・・・あんまり行事とかに熱心な人じゃなかったのかなあ。建物とか、収蔵品のこととかはあれこれ言われたけど、神楽については、覚えてないな」
「そっかあ。残念だね。ちょっと見たかったのに、左近さんの踊り」
「私の?」
左近は人差し指で自分自身を指差す。雛は大きく頷いた。
「神楽には全く興味ないけど、知ってる人がやるなら見てみたい。宿題のネタにもなるしね」
「宿題って、学校のか?」
「うん。作文のネタ。夏休みの思い出を書けっていうの。・・・・・・他にも、宿題いっぱいあって大変だよ。理科の自由研究とか、工作とかなんて、なにしていいかもわからない」
ここで、左近は少し目を瞬かせた。
「それは、面白そうに思えるんだが・・・・・・そんなものが宿題なのか?」
「面白くないよ。困ってるの」
頬を膨らませながら、雛はふてくされたような声を出した。その様子がおかしかったのか、左近がくすりと笑う。
「工作はともかく・・・・・・この辺になら、理科の研究材料になりそうなものは、いくらでもあると思うけどねえ」
「例えば?」
「んー、虫取りとか」
とたん、雛は顔を歪める。
「虫だめ。嫌いじゃないけど、全然捕れないし、捕ってもどうすればいいのか解んない。すぐ死んじゃうしさ」
「そうか・・・・・・まあ、女の子だしなあ」
呟いて、左近は次の言葉を考えるように、顎に手を添えた。それをちらりと見てから、雛は神社の庭に目を向ける。
建物の裏側の軒先に腰掛けている二人の前には、神社の裏庭と、その先の樹木の群れが広がっている。蝉の声はするが、木とひさしが光と熱を遮ってくれているので、うだるような暑さはない。出されていたお茶の氷が溶け、からりと音を立てた。
その音に、矜持を受けたかのように、雛は思い出す。
「そうだ左近さん、動物は? 動物のことなら、調べられるかもしれない。好きだから」
「動物って・・・・・・ここで?」
左近は戸惑ったような表情を見せたが、雛はわくわくと大きく頷く。
「こないだいるの見たから、大丈夫! この山にいる動物について、調べればいいんだ! ねえ、左近さんは、何か・・・・・・」
言いかけて、きょとんと目を瞬く。
「左近さん?」
「――動物を、見たのか? ここで」
「う、うん」
突然、雰囲気を固く真剣なものに変えた左近に、戸惑いながらも頷き返す。答えてからも、左近は怖いくらいのまじめな顔で、雛をじっと見ていた。
やがて、確かめるようにゆっくりと左近は口を開く。
「何の動物だった?」
「わ、解らない。はっきり見たわけじゃないし。茶色い毛で、わたしの膝くらいの大きさってことくらいしか・・・・・・」
「――・・・・・・そう、か」
ふっ、と左近が発していた固い空気が緩む。雛は恐る恐る、肩に入っていた力を抜いて、ちらりと左近を見た。
「それが、どうかしたの?」
探るように問うと、左近は困ったように笑う。
「いや、何でもないんだ。・・・・・・それよりも、動物を調べるにしても、この山ではやめた方がいいんじゃないか。迷ったりしたら大変だし、危険な生き物もいるかもしれない。危ない場所もある。何かあったら、休みどころじゃなくなるぞ」
「あ、そっか。そうだね」
じゃあ、本で調べようかな、と呟きつつ、雛の頭の中では、別のことが渦巻いていた。さっきの左近さんは、なんだったんだろう、と。
けれど、それを聞くのはなんだか悪い気がして、結局帰るまで、口に出すことはできなかった。