入道雲と白い月
じりじりと照りつけていた太陽が沈むと、夏の空気も少し熱がゆるむ。
雛のいる竹中の祖父母の家は、縁側と玄関の戸をすべて開け放ち、室内に風を入れて涼をとっている。
涼とともに虫も入るが、蚊取り線香と蚊帳でしのぐのが、この家の習慣だった。
「雛ちゃん、ご飯だよ」
灰になっていく蚊取り線香を、じっと見つめていた雛は、祖母の声で我に返る。頭の後ろ少し上の辺りから、おやおや、とあきれたような声がした。
「また線香見てたのかい。好きだねえ。いったい何が面白いんだい?」
「ん。何となく・・・・・・。ゆーっくり渦巻き型のまんま、灰になってくのが、面白いかな?」
灰から目を放さぬまま、応える。
祖母は感心したような呆れたような息を吐き、もう一度、夕食だと告げた。
「はあい」
応えて縁側を後にすると、食卓へ向かう。四角いちゃぶ台の上には、大盛りのそうめんが盛られていた。大皿の上に、竹ざると八つ手の葉がのり、さらに上に渦巻くようにそうめんが鎮座している。所々にピンクや緑色の麺が混ざり、お祭りのようだと思った。
麺つゆの入った椀と、副菜を持ってきた祖母が席に着くと「いただきます」のあいさつの後に、夕食が始まった。
冷たくて食べやすく、見た目も色彩豊かなそうめんならば、雛も手間取ることなく、食べ進めることができた。
「おばあちゃん、おじいちゃん。色付き麺もらってもいい?」
箸を伸ばしかけながら聞くと、祖父母は笑みを浮かべて頷く。
「雛ちゃん。お箸は、取るものを決めてから伸ばすもんだよ。お皿の上でうろうろするのは、迷い箸といって、行儀が悪いんだからね」
と、くぎを刺されもしたが。
つるつると麺をすすっていると、かすかな風に揺られた風鈴が、ちりりん、と鳴る。祖父母は、その音を涼しげだと言って目を細めるが、雛にはその感覚がよくわからない。風が吹いたところで、昼間の熱気でむっとしているし、音を聞いても暑いものは暑い。
おばあちゃんとおじいちゃんは、不思議なことを言うな、と思いながら二人を見ていると、二人は雛の父――彼らの息子のことを話し始めた。
「あの子が来るのは、いつ頃になるかね。のんびりしているというか、後回しに出来ることは、とことんまで遅らせる子だから」
「まあ、今回は仕事だから、しょうがない。でも、雛も吉城もいるんだ。あえてだらだらも出来やせんだろう」
祖母は不安気に、祖父は気楽な様子で言葉を交わしている。ちなみに祖父の言った吉城というのは、雛の兄の名だ。彼は中学2年生。部活の合宿のため家を離れており、明後日には戻る予定だ。その後、父と合流し次第、この村へ来ることになっている。
夫に諭された祖母は、だといいけどね、と軽く息をついた。
「お祭りには間に合うといいね、と思ってさ。月乃さんが来られないのは残念だけど、今年は休みの時期が合うから」
「そうさなあ。嫁さんは、また来年にでも来てもらったらいいし。な、雛ちゃん」
「え?」
祖父に話を振られ、雛はきょとんと瞬く。
「お祭り、あるの? いつ?」
「ああ、知らんかったか」
こちらも、面喰ったような表情を見せた祖父だったが、すぐに心得て頷く。
「もうすぐさ。今週の金曜に、夜祭がある。露店は出るし、踊りもあるから、毎年賑やかだぞ」
「踊りって、盆踊り? 花火はないの?」
「花火はないなあ」
確認するかのように、祖父は祖母を見る。祖母も頷いた。
「そうだね。花火はない。ただ、八月になれば、別の町でもっと大きな祭りをするから、そこでは花火があがるよ。でも、そのころには雛ちゃんは帰ってるだろうねぇ」
「そっかあ・・・・・・」
残念、とうつむいたが、すぐに雛は顔を上げる。
「それじゃ、踊りって? わたしも行ったらやるの? 盆踊りって、保育園でしたらしいんだけど、全然覚えてないの。それでも行っていいのかな?」
「そりゃ、もちろん構わないさ。なんせ、盆踊りじゃないからね」
「え?」
「今はお盆じゃないから、盆踊りはしないの。それに、この祭りの踊りは神楽って言って、巫女さんとか神主さんが舞うもんなんだよ」
「神楽」
突然出て着た神秘的な言葉に、雛は続ける言葉を失った。お祭りも花火も盆踊りもよく耳にするなじみのある言葉だったが、神楽といわれると、何となく格調高い、自分とは関わりの薄いもののように思える。
反応が面白かったのか、祖父が小さく声をあげて笑った。
「神楽といっても、本格的なもんじゃないさ。舞台は組み立て式だし、舞手は村民が交代でやってる。音楽もラジカセだしな」
あっはっは、と声があがる。
「だねえ。昔は――それこそ私が小さい頃は、本物の巫女さんが、神社の舞台でやってたんだけど・・・・・・神主さん一家が引っ越しちまったからね」
「え? でも、神社あるよね。巫女さんもいるよ。わたし、今日見たし」
雛が口を出すと、祖父母はそろって、きょとんと目を瞬く。その反応にこそ驚いて、そうめんに伸ばしかけていた手が止まった。
「あの、バス停の先の山の神社のことだけど、知らない?」
「ああ・・・・・・確か大森神社、とかいったかな。巫女さん戻ってたのか」
「・・・・・・さあ? 私も詳しいわけじゃないからねえ」
首をかしげる祖父母に、雛はさらに問いかける。
「大森神社の人が、神楽を踊ってたの?」
「んー・・・・・・そうだね。たぶん、そうだと思う。小さい頃のことだから、はっきりとはしないけど」
「どっちにしても、巫女さんがいるんなら、舞ってもらえないかねえ。今年の神楽は、誰がやるんだっけ?」
「私は、聞いてないね。――でも、巫女さんがやるとも聞いてないから、ひょっとしてその人、ここに来たばっかりなんじゃないのかい?」
祖父は雛に目を向けてくる。雛は、少しの間首をかしげてから、プルプルと横に振った。
「解らない。大人のお姉さんだってことは、確かだけど」
「そうかあ。ご近所さんにでも、聞いてみるかね」
ひとりごとのように呟くと、祖母は箸の動きを再開した。しゃべりながらも時折麺をすすっていた祖父が、思いついたように言う。
「しかし雛ちゃん、山の中まで行ってるのかい?」
「うん。木の多いところの方が涼しいし。今日は動物も見たよ」
「・・・・・・動物? 犬じゃなくてか」
「うん」
満面の笑みで雛が頷くと、あそこに動物が出るのか、と祖父は感心したように言う。
「タヌキとかキツネとかかな。熊じゃあないよな?」
「うん。もっと小さかった。毛皮しか見えなかったけど、茶色だったよ」
「じゃあやっぱり、タヌキかキツネか」
ここで祖母が小さく笑った。雛が視線を向けると、面白そうに言う。
「神社の近くなら、キツネかもしれないね。ほら、キツネはお稲荷さんの使いだしさ」
「・・・・・・あの神社は、お稲荷さんだったか?」
「何でもいいじゃないですか。村の守り神を祀ってるってことで」
おおざっぱな物言いだが、何となく納得できそうなことを、祖母は言う。祖父も、村の守り神なら、山にいる獣が使いでもいいか、と頷いていた。
「さあさ、雛ちゃん、お箸が止まってるよ。のびる前に食べちゃって。宿題もしないとね」
雛は、苦いものを飲み込んだような顔をした。