桃色センチメンタル
泰成はこういう人なのよ。そう言われる日々が辛かった。
あたしと泰成が付き合ったという噂は塾でもまたたくまに広まってしまっていた。あたしはひとりだった。それは無論泰成はあたしによく気にかけてくれる良い「彼氏」の存在だが、泰成の存在は何にもならなかった。女の子たちといることで、あたしは彼女たちに潰されていった。
泰成と話している時は、幸せだった。彼のことしか考えていないから、気が楽なのだ。彼は話し掛けて応答してくれることで、それがとても嬉しかったらしい。塾へ通う度、彼の身振りは大袈裟であり、そして楽しそうだった。あたしは彼と付き合って、色々な事を覚えた。男の価値観、女の嫉妬、カップルの在り方、セックスの仕方。中学生になった今でも触れない境界にあるそれらは、そういう「言葉」を覚えたと言っても過言ではなかった。
世界とはこういうものなのであろうか。何だか全て解りきってしまった気がして、後悔する。小学生なのに、女に男が混ざるととても鮮やかな色になるのだなあ。そんなことを思い、ひたすら彼に愛され、愛してあげていた。
いや、人生を解りきるなんて、いくらなんでも出来なかろう。そんな事は解っている。確かにそうかもしれない。世界はそれだけではないかもしれない。だがその頃のあたしは、価値観が欲しかったのだ。自分の価値観を押し付けて、皆を説得しようとしていた。それは思春期によくある成長なのだろう。あたしは頷く。愛するなんて、容易い。人をーー泰成を好きになるくらいに容易い。軽々と口にしたそれを噛み締めた。
いつか、泰成の存在が重くなった。泰成と話していて肩が重くなるのを感じた日から、そう思うようになったのであった。彼と話していると、何故か違和感を感じる。いつの間にか、あたしは彼を愛せなくなってしまっていたのだった。自分が女の子に睨まれたり、悪口を言われるようになったのは、泰成と付き合いはじめてかれではないか。
さては女の子たちは泰成の事が好きだったのか。簡単な事を今まで理解出来なかったあたしは動揺した。ならば辻褄が合う。彼女たちがどうしてあたしを嫌うのか、泰成がしつこく気をかけてくれるのか。
だが、泰成に「あなたが重い」なんて言える訳もなかった。泰成の事はなかなか嫌いにはなれなかったのだ。彼がいない所では彼の悪口も言えた。嫌いな所も何もかもを笑い飛ばせた。クラスの女の子は驚いたように耳を傾け、目を輝かせた。噂好きな人って、なんか、おばさんみたい。あたしはそうも思う。
だがいざと彼に会うと、そんなもどかしい気持ちは何処かへ消えてしまう。彼を格好いいとしか思えなくなる。あたしは小さな焦燥に頭を抱えた。
「悪い噂って、一瞬にして広まるんだね」
ある塾の日に、泰成の手の温もりを味わって、ぼんやり呟いたことがある。すると彼はきょとんとこちらを見て、笑うのだ。
「俺と桃が付き合ってるのってさ、悪いことなのかなあ」
へらへらと、そう呑気に言う彼は、今日も清々しいやや日に焼けた顔だ。あたしは何だか苛々したような、可愛らしいような、そんなもどかしい気持ちになった。溜め息をつく。この男は何もかも解っていない。あたしの気持ちなんかも知らないで、笑うだけの生き物だ。やはり女は理不尽だ。
鈍感な毎日を送っている野球少年は、今日もあたしの名前を呼ぶ。ねえ、桃、桃。解っていない。本当に女心の解っていない男だ。いっそ別れてしまえばいい。
けれども、彼があたしの名前を呼ぶ。すると不思議と、彼を愛したい欲望が前へ出てくる。あたしは結局、まだ彼が好きだった。
人を愛するのは簡単なことだ。だが人を嫌うのは難しいことなのだ。憂鬱な夜を過ごし、またソファで眠ってしまう。ああ、一度で良いから、セックスの夢が見たい。