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和尚さんの法話 『死後の世界を認める』

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大乗の中には、その自力と他力と両方ある。

例えば、天台宗とか真言宗、禅宗、そういう宗派は自力で
すね。
純粋に他力を求めてるのは、浄土系統ですね。
他力の他というのは、阿弥陀様のことを言うのですね。
阿弥陀様のお力を借りて、そして救うて頂く。そういう行
き方をするのが他力。
今は末法というのですね。

末法というのは、お経だけが残ってるという時代が末法で
す。
お経だけが残ってあって、お釈迦様がいらっしゃったよう
な時代のように修行をして覚りを開くというようなことは、
とても出来ないというのが末法です。

その末法はもう自力も劣ってるから、せめて阿弥陀様のお
力で、極楽へ救って頂く。
その極楽という世界は、無生の世界なんです。

極楽へ行ったら、もう阿弥陀様がそこから下へ落とさない。
上へ引き上げていくばかり。
だから仏様のお力によって救うて頂いて、三界から出して
頂く。こういう教えですね。
そういうふうに仏教は、生死輪廻、生まれたり死んだり、
それを迷いというのです。
迷うているということは、本当の教えを分かってない。
本当の教えを分かってないから、本当の修行が出来ない。
本人はまともだと思うているけど、仏様の目から見たら迷
うてる。こういうことになってるんですね。

弘法大師の言葉の中に、自ら狂して自ら狂する。
狂ってるんだと、そういうお言葉がありますが、よく考え
てみると、お釈迦様はお前たちは迷ってるぞとおっしゃっ
た。
迷ってるとおっしゃるが何がどう迷ってるんだと思います
ね。なにも分からないと不思議ですよね、迷うてるという
のは。

そして覚るということは、いったい何なのか。
言葉としては分かるけれども、自分が迷うてるということ
は、いったいどういうことだろうと。
それは覚りということは分からないから。
覚りということが分かってないから、迷ってるということ
も分からない。

汚たない例えですけれども、昔の便所の中を見ると、ウジ
虫が動いてるのが見えましたね。
彼等にとっては、そこは天国です。
ところが我々にとっては、とてもそんな便所の中へ入って
住もうという気も起こりません。

それと同じように、我々はこの世は結構なところだと、迷
いも何もそんなことはとんでもないと。
これで結構ですと思っているけど、仏様や菩薩方の目から
ご覧になったら、大きく迷うてる。
それはウジ虫が便所の中が結構だと思うのと同じだという
ような、そういう言葉がお経の中にあるのです。

だから自分の境地が上がってきたら、ああ、過去の自分は
迷うてたなと。間違っていたなと。
自分が上がってきたら分かるんですね。


もう一つ別の例ですれば、小学生のときは小学生として、
これでいいと思うていて、大学生になって考えてみたら、
幼稚なことをしてたなと、それは当然ですね、歳が小さい
のだから。
そういうふうに自分が境地が上へあがってきたら過去の自
分はつまらんことをしてたな、あのときあんなアホなこと
を考えていたかとなってきますね。

それと同じなんですよ、救われた救われない、迷ってる覚
ったということはね。
死後の世界というよりも、永遠の生命を持ってるのです。
それを専門的な言い方をしますと、仏性。仏と成る性質を
持ってるということです。
その仏性を到達した方を如来様となるのです。
その仏性を、世てこない間は凡夫であるとか、仏教の言葉
でいえば声聞とか、縁覚とか菩薩とか、そして如来。
こうして段階があるわけです。
そういう聖者になっても段階がある。
そういう段階を踏んで仏様に成っていく。
それが仏教なんです。

その大前提が、霊魂は不滅ということ。
その霊魂不滅ということを信じなければ一歩も進まないわ
けです。
極楽というけど、その極楽とか阿弥陀様が一分の疑いも無
いと、そういうふうな気持ちがなければ、南無阿弥陀仏の
信心が送れない。

阿弥陀様を信じると、そういう言葉がありますけれども、
その阿弥陀様を信じるという意味は、阿弥陀様があると信
じることではない。
あるのは決まってあるのです。
そんなものは問題じゃない。あるのは決まってある。

あるだろうか、たぶんある。
そういうふうに、五感があり、阿弥陀様があると、信じる
とか思うとか、そういう程度じゃ具合が悪いんです。

そういうものは問題じゃないんです、あるのは決まってる
んです。ここに机があるように。

皆さんが帰れば自分の家があるように、そんなものはある
だろうかとは思わないですね。あるに決まってますよね。

極楽もそれと同じようなレベルで、極楽があるに決まって
るんです。
家は出たり入ったりして体験済みだけれども、極楽はまだ
体験していないからそれを有ると言われても、それは無理
だと、そういうことですね、お互いに。

そこはお経を信じ、お経を読んで理解するとか、先輩の話
しを聞いて理解するとか、何とかして極楽とか阿弥陀様の
存在を理解する。地獄もそうですね。

そういうものは爪から先も疑わないと、そんなものはある
に決まってるんだから、そこから先の話しを教えて貰いた
いというくらいじゃないと困るわけです。
そういうのがあると信じることが信仰じゃないのです、あ
るのに決まってるんだから。その上に立って築いて行くの
が信仰とか信心とか、こういうものなんですね。

だから、あの世は無いと思う人には、もう本当の仏教は進
まないんです。
或いは、半信半疑でも困る。

霊魂が有るということと、如来様が有るということと同じ
なんですよ、レベルは。
霊魂は有るに決まってあるけれども、極楽は有るのかどう
かちょっと分からないというのではおかしいのです。
霊魂が有るなら極楽もあるんです。
阿弥陀様もあるんです。地獄もある。
霊魂が有るということは、ひいては神さんもあるし、阿弥
陀様もあるし、極楽もある、地獄もある。そういう同じレ
ベルなんですよ。


「霊魂は間違いなくある」


テレビでよく霊媒とか霊魂とかそういうのを取り上げられ
てますね。
和尚さんもそういう体験がありますので、その体験を幾つ
かお話ししたいと思いますが、霊魂は間違いなくある。

無ければこういうことは起こらないと、そうすると阿弥陀
様もいらっしゃるし極楽もあるというふうに考えて頂きた
いと思うのです。


或るお客さんが和尚さんの寺へ来られまして、その人は初
めて来た人だそうです。
初めて来たということが大事なわけです。
和尚さんがその人のことを何も知らないわけですから。
そういう人が来たわけです。

どういう問題で来たのか忘れたそうですが、和尚さんに相
談に来るから相談を受けるわけですが、和尚さんの目的は
説くのが目的なんですね。
相談に来る人は皆、運命を尋ねにくるわけです。
そのことに対して応えるわけです。
ところがその運命というものは、信仰と裏表なんですね。

信仰がなければ死ぬところを、信仰があったから助かった。
信仰が無かったら怪我をするところを、信仰があったから
怪我をしなかったとか。
大きな難に遇うところを信仰があったから少難ですんだと
か、こういうことがあるのです。