和尚さんの法話 『 来世の法話 』
そんなことはない、この世は結構なところですと、ハワイ
へ行って楽しかったと。
ロンドンへ行っても良かったしと。
こういう人もありますでしょうけど、それは死という海に
漂っている舟のようなものなんですよ。
お釈迦さんは、この世は苦界だとおっしゃってる。
我々凡夫は、楽の世界で楽しいと思うんですね。
それは、また別の例えでは、便所の中の虫がありますね。
今の便所は中を覗けませんけど、昔は見えましたね。
そこにはウジ虫がいっぱい見えました。あの虫は、その便
所の中が楽なんですよね。
ところが我々はそんな中へ入ろうという気にはなりません
ね。
だから我々はこの世は苦界だとは思えない、楽と思うんで
すね。
便所の虫が、便所の中が楽しいと思うのと同じなんだとい
うのです。
「苦脳の娑婆に身を置きて楽しむ心を憂かれけり」
苦界を楽しいと思うことは、嘆かわしいことだとお釈迦様
はおっしゃってるんです。
兎に角、あの世はありますよということなんです。
あの世は単なる平等ではありませんよと。
善悪、信仰の有る無しによって違います。
その用意が出来てますかと。いうのが仏教の警告なんです
ね。
無常感。何時死ぬか分からんということを、まず考えない
といかんということです。
この無常ということに、疎い人と、聡い人の例えがお経に
説いてあるんですね。
無常感ということに対して非常に敏感な人と、そして疎い
人と。それを馬で例えてあるんです。
競馬の馬じゃないんですが、兎に角、馬が四匹あると仮定
してるんですね。
その一匹の馬というのは、非常に敏感で騎手の心を敏感に
察するわけです。
馬にまたがって、馬を走らそうとする。
すると騎手が鞭を振ってその音を聞いて、或いは鞭の影を
見て馬が、あ、これは次は鞭で打たれるということを察し
て、打たれん先に駆け出す馬だと。これが第一の馬だと。
次の馬は、それだけじゃ走らないんですね。
そこで騎手は、打つぞというわけで、馬の横腹を鞭ですっ
と、撫でるんですね。
そうすると馬は、あ、これは次は打たれるんだなと、こう
悟って駆け出す馬。
三番目の馬は、影を見て、無智の音を聞いても走らない。
横腹を擦られても走らないから、仕方が無いから騎手は馬
を打つ。
それでびっくりして馬は走りだす。これが三番目の馬だと。
「「四馬」(しめ)の例え」
四番目の馬は、幾ら打っても走ろうとしない。
走らないから、走るまで打つわけです。
この四匹の馬を例えて「四馬」(しめ)の例えとお経では
いいます。
この最初の馬は、いったいどういう人を例えていうてるの
かといいましたら、これは隣の村に、何方か死んだという
噂を聞いて、あ、自分も死ぬんだと、うかうかしてられん
人ごとじゃないと思うて、自分の死のことを考える人が、
第一の馬だと。
第二の馬は、隣村じゃなくて自分の村に葬式が出た。
これを耳にして、あ、自分も死ぬんだと。
人ばかりが死ぬんじゃないんだと思うて、自分の死の用意
をする。
つまり後生のことを考える。
三番目の馬というのは、自分の親戚に死人が出た。
親戚だから葬式に行きますわね、それで、あ、自分も死ぬ
んだと。何時までも生きてはいないんだと。
親戚の葬式で初めて自分も死ぬということを考える。
四番目の、幾ら打っても打っても走らんという馬は何を例
えたかというと、自分の家族が死んでも、尚且つ自分が死
ぬんだということを考えないという人。
親が死んでも、子が死んでも妻が死んでも、死ぬのは人ご
とで自分は大丈夫と思ってる。
それを幾ら打っても走らん馬と、こういうお経があるので
す。
それほど仏教は、無常ということを、あの手この手を使っ
て、お釈迦様が説いてあるのです。
こういうことからお宗主さんも詩を作って、そして自分の
弟子とか同僚に見せて警告しているわけです。
こういうことは、死後の世界が無かったら、もう無駄なこ
とですよ。
あの世、つまり霊魂が無かったら無駄なことですよ。
それこそ苦悩も何もない、この世を楽しまないと損ですわ、
死んだら終いですわ。
死んだら終いということは、霊魂は無いわけでしょ。
だったらこの世で楽しいことをするだけしないと損ですよ
ね。
ところが、そうじゃない。
あの世が在る。そうなると、そのつもりをしないといけま
せん。
皆さん、もうあと何時間かたったら死ぬんだと、こうなっ
たら宜しいですが、まだ寿命があるとなったら、そのつも
りをしとかんなりませんね。
まず生きていくのにお金が要りますからその用意が必要で
すね。
遊んでばかりはいられない、働かんなりませんね。
それと同じことで、死んであの世が無かったら、つまり今
日一日の命だったら、その命をおかしく楽しく過ごしたら
それでいいわけです。
ところがまだ寿命があるとなったら、そのお金が要るんだ
から、そのつもりの用意をしとかんと困りますわね。
まだ二十年も三十年も命があると。
或いは八十、九十歳あたりませ生きるということになって
きたら、そのつもりをしておかんと困るでしょ。それと同
じことなんです。
この世で終いというのであれば、楽しんでたらいいんですが
、ところがあの世が在るということになってきたら、あの世
の用意をしておかんと困るでしょう。
我々は、この世の中の五年後、十年後を考えて一所懸命働く
わけですわね。
この世の未来を考えてね。
まだ寿命があると思うから。今夜死ぬかもわからんのに。
ところがまだ寿命があるにもかかわらず、まあまあ、今日は
これで楽しく暮らしましょう。
明日は明日の風が吹く。
また明日になったら今日も楽しく暮らしましょう。
明日は明日の風が吹く。
五年十年後の用意もしないで自分は遊んでばっかり楽しんで
ばかりしていたら、その人は終いに乞食にならんならんのと
違いますか。
落後者。家族なんか何処かへ出て行ってくれといいますよ。
だからやっぱり寿命があるんだったら働かんなりませんわね。
あの世の寿命があるんだから、あの世のつもりをしとかんな
りません。
あの世はあの世の風が吹くというわけにはいかんのですよ。
この世でもそうですよ、明日は明日の風が吹くというわけに
はいかんのですから。
あの世でもそうなんですよ。
死んだらあの世でやったらいいわというわけにはいかない。
それじゃ遅い。
それはあの世の落後者になりますわね。
あの世の仕組みはそういうことになってるんですよ。
だから、お経にもそうだし、お宗主さん方も無常だぞ無常だ
ぞ、死ぬということをお前は知ってるのかと、それも何時か
分からんぞということを説いてきているわけなんです。
そこで、何遍もご紹介をしてきましたが、あの世が在るとい
う証拠ですね。
皆さんはテレビも見てらっしゃるから信じてる人も随分ある
と思いますが、ああいうふうに出てくるなかにも、いい加減
なのもありますけど、参考になるのもありますね。
和尚さんもいろいろ体験をされているのでご紹介をします。
和尚さんの寺へ初めて来た人がありまして、初めてですので
名前も知らなかったのですが、再々と訪ねてくるようになっ
作品名:和尚さんの法話 『 来世の法話 』 作家名:みわ